後頭部ビジネス

若木くるみの後頭部を千円で販売する「後頭部ビジネス」。
若木の剃りあげた後頭部に、お客さんの似顔絵を描いて旅行にお連れしています。


*旅行券の販売は現在おおっぴらにはしていません。*

2019年4月10日水曜日

スパルタ〜

「大丈夫ですか」と言ってくれた黄色いランナーは日本人だった。立ち尽くし、ふり返り、私が心待ちにしていた方だった。
「眠くて」と返す自分の声はしゃがれきって聞き取れる限界を超えていたが、この区間、天気は小康状態で雨が止んでいた。車も通らず静かな朝を迎えていたため、会話が叶った。
ポンチョ一枚で走っていることについて心配されたが、寒さは我慢できる範囲だった。それより眠い。互いに名乗り合ってから、「スパルタ何回目ですか?」とか、「目標タイムありますか?」とか、「お住まいは」「走歴は」「きっかけは」、睡魔のつけ入る隙をつぶそうと、立て続けに質問した。初対面の方にあれこれ聞き込みする感じが見合いの場のようだと思ってひとり照れていると、「あの…、よかったら、持ちます…?」と言って腕を差し出してくれて、ドッカーン! ハートが噴火した。続けて、「あ、あの、手でもいいですし袖でもいいですし裾でも、…どこでも。あの、以前なにかで完走文を読んだことがあって」と、慌てた様子で補足され、自分はさらに赤面した。「どこでもいいんですか…? じゃあ、…ちんこでも……?」と言えるほど親しくはなく、「そ、袖を…」と出ない声を振り絞り、おずおずと腕を取った。
海外、国内問わず長距離走のたびにつぶれては都度、だれかに手を引いてもらってきた。身に覚えがありすぎて、どのレースの記録を読まれたのかわからなかった。いずれにせよろくなもんじゃないのは確かだが、それでもそのおかげでこうして並走してくれるのだからありがたい。なんでもかんでも書いておくものだなと思った。というわけでもう一度ここに改めて記しておくと、私は眠いときに手をつないでもらうのが大・大・大好きです。
相手が外国人の場合は、こちらが弱っていると見ると有無を言わさず手を取ってくるし、日本人の場合は、こちらから襲撃してむりやりかまってもらう。これまで様々な手口で他人を巻き込んできたが、「よかったらどうぞ」と控えめに介添えを提案されるパターンは初めてだった。頬をポッと赤らめる自分が、ゾーンに入ったのがわかった。もう、好きと思ってしきりにもじもじした。遠慮がちに袖をつまみ、「やだあ女子〜」とオカマ口調で思ってまた照れた。

異性の袖をひっぱって、半歩うしろを行く。
それだけ書くと初々しく可憐な情景も、実際のところは「妙にゴツゴツしたばかでかい女が酔っ払いじみた千鳥足でしつこくすがりつく」という残念さで、男役のランナーがお気の毒だった。それでも、「ごめんなさいごめんなさい」と謝ると、「いえ、気がまぎれて自分も助かってます」とか返してくれたりして、「それそれ〜!」と私ははしゃいで思った。この人ほしいセリフをくれるなと思って、好きメーターがまた上がった。ここまでのレース、人から助けられる一方だったので、助け合いがやっとできて感無量だった。もっと助けられていいですよ! 私に! と思って袖を強く握り直した。
エイドが見え、自分は先行することになった。「声が出なくてすみません、ゴールしたらちゃんとお礼をさせてください」などといい子ぶった挨拶をして、別れた。
ああよかった、あの人がいてくれて本当に助かったと、すっかり良い思い出にしていたら、また眠気が来て足が止まった。止まると、思い出が追いついてくる。再会。並走。エイドに着く、別れる。眠くなる。追いつかれ、並走。エイドで別れる。眠くなる。追いつかれ、並走。
会えない時間で愛を育てたいのに、私の足がすぐに止まるため、あっさり会えてしまってありがたみがなかった。けれども、何度も何度も、眠くなると必ず現れる黄色いジャケットは、私にとってヒーローだった。自分は、「ヒーローの仕事は困っている人を助けることなんだから、まあいいよね」と、無力なランナーの座にふんぞり返って、このいびつな関係を肯定した。
そのようにして長らく助け合って(公認)きたが、200kmを超えたあたりで急な便意に襲われ、私は何も言えずにじりじりと後退した。振り向いてくれないかな、でもいま振り向かれたら脱糞シーンを見られちゃうよ〜、と複雑な感情で、黄色い背中が小さくなるのを見届けた。
それが最後だった。
完走後、お礼が言いたいと本当に思っていたのに、なんと私は顔を覚えていなかった。メガネの特徴だけを手がかりに、メガネをかけている人に片っ端から「○○さんですか?」と尋ねて回ったが、いずれも人違いに終わった。しかし言いわけするならば、○○さんはレース中フードをすっぽりかぶっておられ、しかもメガネは曇っており、髪型も輪郭も目の造形も隠れていた。鼻がふたつついているとか、もしくは鼻がないとか、顔面中央にびっくりするような特徴でもない限りお手上げである。実際、ランナーなんてだいたいみんな痩せて焼けていて短髪で、そもそもが酷似しているのにその上メガネが来るともう印象は「メガネ」でインプットされてしまう。そしてメガネのランナーは意外と多いのだった。

紅白などでAKBを見ると決まって「若い子はみんな同じ顔をしておる」とぼやく初老のおじさんと同じで、「ランナーはみんな同じ顔をしておる」と私も思うのですが、それは覚える気がないからじゃなくて、AKBとかテレビに出ている娘はみんなかわいいじゃないですかあ〜。彼女たちは整っているから似てるんです。そのように、ランナーの方も全員すてきでいらっしゃるので、ごめんなさい、みんな、同じに見えます…。だから、レース中親しくさせていただいても、あとで顔がわからなくなることについて、どうか悪く思わないで欲しいのです。本当にね、みなさんかっこいいのでね……。それなら、じゃあなぜ自分はやたら顔を覚えられてしまうのか。ブスだからです。でも整形したので、もう覚えないでください。