後頭部ビジネス
若木くるみの後頭部を千円で販売する「後頭部ビジネス」。
若木の剃りあげた後頭部に、お客さんの似顔絵を描いて旅行にお連れしています。
*旅行券の販売は現在おおっぴらにはしていません。*
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2019年6月15日土曜日
走った
外出先から家までの距離がちょうど42kmだったので、練習になればと思って走って帰ってきた。
富山マラソン以来、8ヶ月ぶりの長距離走だった(42kmを長距離にカテゴライズしても良いのなら)。
20km過ぎから、疲れがどっと来た。
時空が歪んでいるに違いないと思うほど最後の7kmが長かった。
走り出す前は42kmも走れるかわからなかった。
途中でやめたらどうしようと恐れていたが、やめる前に家に着けた。
6時間以上かかった。
給水は一度もしなかった。「かわいい子には脱水させよ」って昔から言われているし、本格的な夏が来る前にかわいい自分に脱水状態を与えようと思って、耐えた。夜間走なので涼しく、脱水にはならなかったが喉がとても乾いた。
終わって飲んだイオンウォーターが乾いた体によく染みた。
去年はスパルタスロンのあと、9日間連続でスパルタの夢を見てうなされた。自己ベストは川の道の後の11日間だったので、10日目、悪夢の記録が途絶えた時はほっとした。今回のスパルタには確かに苦心させられたが、川の道ほど辛くはなかったという証明になった。川の道ほど引きずらないだろうという目安にもなった。
実際、体を負傷したわけではないので、走ろうと思えばいつでも走れた。
ただ意欲が湧かないだけだった。
スパルタスロンのことは、ふとした拍子に思い出した。
ゴール翌日、朝食会場で大滝さんに会ったときのこと。
「完走した」とわたしが告げると、大滝さんは「えっ」と言って目を丸くし、「完走したの!?」とさも意外そうに聞き返してくるので心外だった。そりゃしますよ! わたしをだれだと思ってるんですか!
憤慨するわたしにはおかまいなしで、「くるみちゃんはあのコンディションじゃ、きっと無理だろうと思っていたよ〜。」大滝さんはにこにことほざいておられた。
わたしは唖然として、「そんな…。」としか言えずに涙ぐんだ。見くびられたものだなと思った。事実、レース中ずっとリタイアしたいと思い続けていたことは、大滝さんには言うまいと誓った。
けれども、「見損なわないでくださいよ!」と精一杯の虚勢を張ったわたしに、「よくがんばったね」と大滝さんはねぎらいの言葉をかけてくれて涙腺が決壊。
そうか。どうしようもないタイムだったけど、自分はよくがんばったんだな。誇らしさがこみ上げた。
レース前、大滝さんに言われた、「走っているうちに治るよ」の言葉を信じて自分は最後まで走ったんだった。大滝さんがやさしくなくて本当によかった。「熱あるよ」「安静に」とか言われていたら絶対やめてた。医者はやさしくないに限ると思った。
少し前、東京に行った隙に大滝さんの病院へ寄って診断書をもらってきた。
ロビーの棚には大滝さんのトロフィーがたくさん飾ってあった。
世界大会での輝かしい栄光の数々が、ちゃちな灰色の棚の中に狭苦しく並んでいるのだが、中には名誉市民みたいな表彰状もあってダサかっこよかった。ランニング誌のインタビュー記事は棚の側面に無造作に貼り付けてあった。見栄えを無視した展示方法に頬が緩んだ。
待合客は座布団に座って、時間潰しにそれらの記事を眺める。24時間耐久だとか48時間耐久だとか、ハードすぎる競技が当たり前みたいな口調で普通に語られている。率直に言ってこわい。病院を訪れるような、どこか患っている方々は、常軌を逸した鉄人である大滝さんの記事を読んでどのような感想を抱くのだろう。自分がもしこの病院の患者だったら、不安を感じると思う。症状を訴えても、「走れば治るよ」で一蹴されそうだ。
実際の大滝さんは際立って柔和な物腰の先生なので、問診ではだれよりやさしく患者さんと接していらっしゃることと思う。待合室に並んだ度肝を抜く走歴の数々は、あらかじめ患者を恐れさせておいて、ギャップを利用してやさしい印象を上乗せする、大滝さんの汚い手口なのではないかとわたしは疑っている。
大滝さんはいつも穏やかで、怒りや悔しさや葛藤といった激しい感情を持たないように見える。
レースがあってもなくても、穏やかな表情を崩さぬまま、あくまで淡々とランニングを続ける。
それが大滝さんの元々の性質なのか、鍛錬によってそうできるのかはわからない。
けれどもわたしが会話の流れで「走るのが好きです」みたいなことを言ったらとてもうれしそうな顔をされたので、大滝さんは走ることが純粋に大好きな人なんだなあと感じた。
患者さんから「なぜ走るのか」というバカみたいな質問をされても、大滝さんなら真顔で「そこに道があるから」とか答えてあげるのかもしれないと思った。
わたしも自分の答えを探している。
「走るのが好きです」はちょっと嘘かもしれない。
俺は不滅の男、ってだれの歌だったか思い出せない。