後頭部ビジネス

若木くるみの後頭部を千円で販売する「後頭部ビジネス」。
若木の剃りあげた後頭部に、お客さんの似顔絵を描いて旅行にお連れしています。


*旅行券の販売は現在おおっぴらにはしていません。*

2016年5月19日木曜日

エイドを出発するとすぐに真っ暗になりました。
はじめはそんなに勾配もきつくなく、カーブを繰り返す山道を、ヘッドライトの小さな明かりで元気に走れました。

暑くも寒くもなかった。快適です。
眠気周期の2時間が来るまで、一生懸命走って延命するつもりでした。
ところが1時間も経たないうちに、早すぎる睡魔がやってきました。
さっきごはん食べたせいだな……。
給食後の5限目は必ず眠くなる学校の思い出。
よろめき、立ち止まって、またよろめき、それでもなんとか前に進まなくてはという意志だけは変わらずにありました。

眠気対策をしなかったわけではないのです。
眠くなるのはめちゃくちゃ予想できていたことでした。
出発前には『サウルの息子』と『野火』を観ました。どちらも息苦しい映画でした。246km走るぐらい、どうってことないと心から思いました。
ガス室もない、奇襲もない、地雷も埋まっていない。清潔な飲料と食糧とが用意されていて、ゴールが明確にあるマラソン。楽勝です、と神に感謝して思いました。眠くなったら、スクリーンの血みどろの世界を脳裏に浮かべよう。

「サウル、野火、サウル、野火……。」
睡魔撃退秘技、「サウルと野火を思い出す」を、わたしは実際、何度も遂行したのです。
でも、映画の凄惨さで、現実の眠気を吹き飛ばすことは困難でした。恐怖も憤りも、自分の感情に手応えがなかった。あの時もし目の前に本物の死体が転がっていたら、わたしの目は覚めただろうかと思うと、それすらも自信がないです。
眠い、それしかわからない。
あらゆることに無感動でした。

後ろから来るランナーたちが、大丈夫かがんばれって励ましてくれて、ビンタしてもらったりくすぐってもらったり色々試して、一瞬は目が覚めます。
よし! これで大丈夫! ありがとう目が覚めましたがんばります! って言った直後にはもう眠い。終わりがない。未来がない。暗い。

「オラアー!!! 起きろよー!!!」
傍目を気にせず絶叫していると、後続ランナーが腕をつかんで介抱してくれました。よーしやさしい人ゲット、しばらく甘えちゃおうと思って、ごめんごめんと言いながら、身をまかせてとろーんと歩いていると、「大会車止めて乗るか?」と心配そうに顔をのぞきこまれ、グワッ!! 目が覚めました。
「ノー! 我想完走!!」
完走したいです絶対。そう言うと、「えっそうなの?」と驚いたように目を見張って、わかったとうなずいて一緒に走ってくれました。

目が覚めたはずがまたずるずる眠くなって、意欲を態度で示せません。付き添ってくれている方は、わたしが崩れ落ちそうになると、甘い飲み物を飲ませてくれたり、サプリをくれたり、あれこれお世話を焼いてくださいます。
最初はご厚意に甘える気満々でしたが、それにしてもわたしは甘え過ぎでした。しきりに申し訳なく、「ニーシェン、ニーシェン!」先に行ってくださいと本心から何度もお願いしたのです。でも、ガードレールの切れ目を指差され、「ここはとても危険だから」と。「時間はまだ大丈夫だから」と。そうかここから落ちたら死ぬのか。死ぬのはやだな……。結局そのまま、腕を支えられてグラグラ歩きました。

坂道は続きました。
2時間あった貯金がすごい勢いで減っていきます。エイドは見えません。
過ぎて行く時間がこわい、自分が迷惑すぎる、先行ってほしい。安易に頼るんじゃなかった。相手が悪かった。親切すぎる。ちょっとした出来心だったんだ。死ぬほど申し訳ない。どうしたらいいんだ。どうやったら見放してもらえるんだ。

坂道を上れず、何度か膝に手をついて立ち止まりました。「ちょっと苦しい」って、おっとり言って。もうこいつに見込みはないとわかったら、先に行ってくれるんじゃないかという期待も込めて。
ポーズのつもりだったんです全部。なんでもない、ただの甘えた一休み。
でも突然吐き気に襲われて、戻した吐瀉物から漂う甘ったるい匂いが、ますます気持ち悪かった。そして同時に、なんだあんたほんとにしんどかったの!? と、驚いて自分を見直しました。ほっとしました。自分の中のメンヘラがただ甘えてるだけだと思って、はらわた煮えくり返ってたから。でも違った! 免罪符! ほんとに体はきつかった!

隣の方が心配して背中をさすってくれていました。
それほどダメージを受けている実感なく吐いてしまったことに動揺はありましたが、自分の怠けた態度に正式に診断が下りたようでもあり、勝訴。わたしは自分を許そうと思いました。だから汝も隣人を許せ。あなたの隣の隣人は、ここまで決して、ふざけて走れなかったわけではないようですよ……、と。
 
「吐いてすっきりした! もう大丈夫! 今度こそ大丈夫! 起きた!  先、行ってくださいもう時間ないです!」
腕時計を示しながら、今までで一番元気な笑顔を見せると、とんでもないと言わんばかりに首を振って、「ヘルス、イズ、ベリー、インポータント! ヘルス、イズ、ナンバーワン、インポータント!」一語ずつ噛み締めるように言われました。
事態は深刻でした。
大丈夫だよ〜! 吐いたのこれが初めてじゃない! と言いたかったのですが、言葉が不自由なせいでうまくいかず、二の腕をつかむ手にはもっと力がこもっていました。

「先に行って下さい〜」嘆願する度、必ず繰り返される「ヘルスイズ、インポータント」。日本ではメンタルヘルスのことメンヘラって言うんですよ〜……。メンヘラの代表例は、病んでるアピールとか吐いたりとか〜……。やばい該当してる……。
歩めども歩めども見えないエイドの灯り。そしてまた眠気……。絶望……。

ほとんど死にながらエイドに辿り着いたのは、制限時間の10分前でした。
連れてきてくれた方はわたしを椅子に座らせて、「自分は大丈夫だから、ゴールするから心配するな」と、やっと、「先に行くよ」と言ってくれて、わたしはうんうんうなづいて「謝謝、謝謝」と拝むように見送りました。自分のせいでつぶしてしまった彼の制限時間を、どう償えばいいんだろうと思いました。

リタイアします。
お兄さんに連れられて歩いている時には、苦し過ぎて申し訳なさ過ぎて、何度もリタイアを表明しようと思いました。でも決意を固めてからは車が通りかからず、言い出せないままここまで来た。
リタイアします。
エイドに間に合った今は、でもやっぱり、その一言が言い出せません。
少しだけ休もう、そうしよう。あとはそれから考えよう……。
首から上はうつらうつら、首から下はガタガタ、震えながら数分、仮眠をとりました。

……わたしは立ち上がりました。
寒過ぎて座っていられなかった。
標高3200mの頂上まで、あと8km。関門は3時間後。
このペースでは無理かもしれない、だけど回復するかもしれない。やってみないとわからない。

行こう。
出発しようとすると、スタッフの方に止められました。
「まあまあ落ち着いて、ちょっと休んで」ってやさしい物言いでしたが、関門突破のためにはぐずぐずしていられません。言葉も通じないし、もういいかな? もう行ってもいいのかな? 首をかしげながら「我想完走!」を繰り返しました。

「くるちゃん!?」
駆け上がってくる、ピンクのダウンが視界に入りました。
あきちゃん……。
武内さんの登場に安心して、「さっき吐いちゃったの」と泣き声を出した。そしたら「吐いたって走れるでしょ!? 行くよ!」と言って勢いよく手をひいてくれて、かっこいいー! うん、わたし完走したい! 背景の黒ベタがキラキラし出して、手と手を取り合って数歩、走ったところでスタッフの方に通せんぼされました。
指紋を採るセキュリティグッズみたいなやつで、ひとさし指を挟まれた。これで酸素量だかなんだかを測るのです。こいつが出てきた瞬間、「終わった」とわたしは悟りました。昔、八ヶ岳でも指を挟まれた。同じパターンでドクターストップだった。
おしまいです。