後頭部ビジネス

若木くるみの後頭部を千円で販売する「後頭部ビジネス」。
若木の剃りあげた後頭部に、お客さんの似顔絵を描いて旅行にお連れしています。


*旅行券の販売は現在おおっぴらにはしていません。*

2019年3月21日木曜日

スパルタ 続き2

雨がひどい。
雨が、勢いよく乱打してくるので満足に目を開けていられない。
夜闇の中で雨だけが活発であった。手加減なしに降ってくる。しかも一粒一粒がでかくて重い。悪意すら感じる。雨粒の中に隕石が混じっていても驚かない。凍えた皮膚がえぐれそうだ。
足元ばかり見て進む。時々は前も見る。
前を行くランナーの、ヘッドライトの明かりを見失わないよう努めた。前方のライトも進行は鈍かった。ライトが大きく迂回する動きで、水たまりが進路に立ちふさがっているのだとわかる。遠回りするのが嫌でそのまま直進すると、足首までざぶりと水が来た。深い。後悔して後ろを見ると後続ランナーはしっかり迂回していた。自らズブズブ深みに嵌りに来た自分のヘッドライトが、水面に反射してせわしく踊った。

雨がひどい。
雨がひどい上に眠い。
眠気対策として、あらかじめウェアの背には「I am sleepy.  Please wake me up /眠い起こして」と大きく書いておいた。せっかくのレースだ。普段の練習ではひとり孤独に走るだけだが、レースだと周囲にだれかがいる。もちろんあてにしたい。大会前日の説明会でも、レースの特徴やルール等の事務的な注意事項のあとは、「みなさん助け合ってゴールしてください」という道徳の時間みたいなマイルドな声かけで締められた。しかし校長先生的な通りいっぺんの説話ではなく、私は真剣に他力を本願していた。みなさんどうか助け合いしてくださいと心から願っていた。
しかしポンチョの中で「起こして」の文字はだれにも見つけてもらえなかった。話しかけてお願いしたいが、声も出ない。雨音のドラムロールにかき消されて、声もろとも、自分の存在までもが消滅していくようだった。

眠い。
だれかについて行きたいが、いまいちペースが合わない。
かと言って、抜き去って先行したくもない。この雨の中ひとりで走る元気はない。常に、前を行くだれかのライトが見える位置を保って進んだ。
大きな水たまりを迂回する際、道端へ寄ると、後ろから来たランナーと進路が重なった。
ゼッケンの名前が読めた。日本人だ! ついて行ってもいいかとお願いした。水たまりのおかげで至近距離で話すことができた。隙間風みたいなかすれ声でも会話が通じた。
いいペースだ。速い。ついに寄生先を見つけたと思った。このままこの人と一緒に走らせてもらおう。距離を稼ごう。どんどん先行ランナーを抜いていった。瞬間、雨音に違和感が混じった。フードの中に微かに、雨音以外の音波を感じた。
振り返ると発生源がいた。外国の知り合いだった。疲れ果てて2時間、歩き続けているそうだ。それじゃあ、と言って、お先に失礼できる感じじゃなかった。さっきの方にご挨拶しておかねばと、再度走り寄る。並走を頼んだばかりだったのに、なんと切り出せばいいのか、とにかくばつが悪かった。「あの…ちょっとあとから行きます…」モゴモゴ言って後退した。

エイドふたつぶん外国人と一緒に走ったが、ダート道に入るエイドで休むと言う。休むとたちまち凍えてしまう。私は待っていられない。別れることになった。
ひとりで走ると気が滅入った。あの調子では、ゴールまでは行けないだろう。おそらく先は長くない。感傷的な悲しみはなかった。むしろあるのは失望だった。なんで休むのと思った。呼び止めたのはそっちなんだから、もっといっしょにいてよと思った。考えることは、自分を生かすことだけだった。
寄生先を見誤った、と乾いた気持ちで反芻した。さっきの日本人を逃したことが、返す返すも悔やまれた。

ダート道のぬかるみを越えた。コンクリートの急坂を下る。調子は悪くない。スピードに乗った、その時だった。
足元を照らす光が弱まった。額からライトがずり落ちて変な方向を向いたのか。頭を振って光のスポットを探した……と、視界が完全に暗転した。スイッチを押しても引いても反応しない。なんとバッテリーが、終わっていた。
山に入るずっと手前でライトが切れた。闇夜はまだ序盤である。
充電はちゃんとした。実験もした。去年もこのライトで走ったし、台湾のレースでは二晩とも、このライトで越せたのだ。スパルタの一晩くらい、なんてことないはずだった。予備ライトはサンガスに預けてあるものの、それはメインで使うには頼りなさすぎる小さなライトだ。
想定と現実とがまったく合致していなかった。なぜだ、なぜ切れたのだ。予定より早い位置で夜を迎えてしまったためか。ライトトラブルは想定外にも程があった。
土砂降りに恐れをなした自分が、知らず知らずのうちに光量をあげていたのだろう。明るさをマックスにするとバッテリーがこんなに早く落ちるなんて知らなかった。寒さのせいもあるかもしれない。そういえばスマホも、寒いと電池の消耗が激しかった気がする。気のせいかと思っていたが、あれはこういうことだったのか、スマホ。
勉強になった。勉強にはなったが、レースの最中に勉強しているようではどうしようもない。穴だらけのレースプランに頭を抱えた。

道は真っ暗だ。
数歩、足を踏み出してみたが恐怖で身がすくむ。観念して後続ランナーの訪れを待った。
辿ってきた道を祈るように見上げていると、やがてライトが近づいてきた。際立って細い脚のラインと上半身とのバランスが、独特だったので覚えていた。時々エイドでお見かけしていた日本人の方だった。ライトをつけずに立ち尽くす自分のシルエットが漆黒の闇と同化して、見つけてもらえない恐れがあった。大きく手を掲げてにじり寄る。うざくて申し訳ないがついて行かせてほしい。事情を話すと、足を止めてくれた。ヘッドライトの光が眩しくて顔が見えない。相手の心境がわからなかった。止まらせるつもりではなかったのだ。かたじけない。「いや、勝手について行くので気にしないでください」と言おうとしたら、大きなリュックからペンライトを取り出して持たせてくれた。「100均のライトだから返さなくて良い」ともおっしゃった。えっそんな! 恐縮しているうちに先に行ってしまわれた。ライト云々は別としても並走させてほしかったが、ライトを与えられた手前、なおも並走を求めるのはおかしい気がして遠慮した。ライトは絶対にちゃんと返して、まともな人だと思われようと決心した。
ポンチョに引き続き、またしても救命道具がもたらされた。
ライトはとても明るかった。道は再び照らされた。

「助け合い」の「合い」の部分が欠けている。助かるだけ助かっている。
助けられるだけ助けられて自分ばかり、できそこないの完走にしがみつく。