後頭部ビジネス

若木くるみの後頭部を千円で販売する「後頭部ビジネス」。
若木の剃りあげた後頭部に、お客さんの似顔絵を描いて旅行にお連れしています。


*旅行券の販売は現在おおっぴらにはしていません。*

2019年3月29日金曜日

スパルタ・サンガス ベース/トップ/ダウン

長い長い坂道を歩く。
途中でエイドが一箇所あったはずだ。
経験から、いつかは着くと知っている。進めば着く。必ず着く。知ってはいるが、信用できない。幸いにも眠くはない。しかしそれさえ、信じて良いのかわからない。いま自分は、夢の中で「眠くない」と思ったのだとしたらどうしよう。だれかほかのランナーをつかまえて、「これは夢ですか」と聞いてみようか。しかし「現実だ」と言われたところで、「現実だと言われる夢を見ている」疑いは消えない。夢から醒める方法がわからなかった。たとえ夢の中だとしても、前進するほかない。蛇行はしていなかった。テンポも良い。確かに進んでいる。しかし景色が変わらない。底冷えのするような不安が定期的に襲ってきて身震いした。
そういえば、関門には間に合うのだろうか。もう長いこと貯金を確認していなかった。他のランナーがだれも慌てていなかったので安心しきっていた。しかしあの時周りにいたランナーは全員先へ行っている。
もしかしてやばいんじゃないか。炎のように体が燃えた。額から汗が吹き出す。ホットフラッシュだ。ようこそ更年期障害。あまりに暑いのでポンチョを脱いだ。
時計を見た。早朝だった。後半の制限時間はメモしていない。レースが始まる前は余裕の計画だったせいだ。懸命に記憶をたぐる。5年前のリタイアが蘇る。あの時、この道で、3分前にエイドを通過した……あれは何時だったろう? 5時か? 6時か? 確かサンガスの頂上は7時でタイムアップだった。サンガスベースからサンガストップの所要時間は40分、ということはベースエイドの関門閉鎖は6時20分。じゃあその前のエイドは何時だ!? 間に合うのか!? 
高度を上げるにつれて気温は低くなるはずなのに、自分だけ場違いに暑かった。沸騰したヤカンみたいに、熱すぎてカタカタ震えていた。震えにもいろんな種類があって飽きない。蒸気を上げて走っているとすぐにエイドが見えてきた。血相を変えてボードの関門時間を読む。間に合っている。次のエイドもすぐだった。色とりどりのライトが輝く、ベースエイドについに来た。

選手、スタッフ、サポーターが風雨吹きすさぶエイドに入り乱れ、テントは混雑を見せていた。
ここは自分が装備を預けた唯一のエイドだ。ゼッケン番号を伝え、荷物を待った。トラックから荷物を運び出す係は、顔見知りであるエレナのお父さんがしていた。
かつてここでボランティアスタッフをしていたエレナから事前にサインを頼まれていたのだが、とてもそんな余裕はない。断らねばと思うと憂鬱だったが、お父さんからも何も言われることはなかった。ドボドボ言う雨のカーテン越しに、「今年大変だね、余裕ないね」というアイコンタクトをして心を通わせた。
荷物を受け取ってビニール袋のちょうちょむすびをほどき、防寒着を取り出した。ポンチョの袖から雨が盛大にしたたり落ちて、カーキ色のダウンジャケットが瞬く間に暗色に変化した。その、大きく広がる雨ジミを見た瞬間、なにかものすごく惨めな気持ちになって、取り出したダウンを袋の中に再び戻した。今、これを書いている今ならば、なんてバカなことをしたんだろうと思える。なに考えてんだ、と今はそう思う。でも、雨を含んだらずっしり重くなるんだろうなあとか、濡れそぼった生地はベチョベチョ冷たく肌に張り付くだろうなあとか、あの時考えたのはそんなことばかりで、ビニール袋のままダウンを携帯するとか、ポンチョの下に着こむとか、冷静になれば出てくる簡単な代案はひとつも思いつかなかった。
ベースエイドには武内さんとジョイナーさんの姿があった。もう出発するところだった。早く彼らに追いつかねばと、焦るばかりで結局何も身につけないまま異様な軽装で山に入った。

武内さんがスイスイ登って行ったあと、自分はジョイナーさんのすぐ後ろをキープした。途中、頑として道を譲らない外国人のランナーがいて、マナーがなっていないと思った。ジョイナーさんが怒ってくれるだろうと期待した。厳しく注意するか、もしくは「どけよ」と睨みつけて無理やり抜かすか、何か胸のすくようなアクションを待ったが、実際は温和な雰囲気で黙認されているのが私にとっては遺憾だった。華奢なジョイナーさんが風に煽られて後ろにのけぞったり、ご自身のレインコートの裾を踏んづけてよろめいたりするたびに反射的に「すみません!」という謝罪が口をついて出た。ジョイナーさんの後ろを歩くと、軍隊の行軍のようで5度目のサンガスも新鮮に感じられた。絶対君主としてジョイナーさんを過剰に畏れる自分だったが、当のご本人は至って気さくで、なんならこちらの体調をいたわり励ます、やさしいボスだった。スパルタで会ってお話するたびに、楽しいなあやさしいなあと心から思うのに、なぜか毎度それが更新されず、決まって第一印象の「こわい」からやり直してしまう。歪んだ人物像を作り上げてすみません、と心の中でまた謝った。
同じ歩みで皆揃って、トップエイドに到達した。
吹きさらしの頂は、凍てつく風が暴走族のように唸りをあげて荒れ乱れる、めちゃくちゃな場所だった。
ゼッケンチェックを済ませる間も、休まず足踏みをしていないと寒さで即死する。下界めがけて猛烈な勢いで駆け下った。

ジグザグのガレ場を転げるように走った。
いつ転んでもおかしくない危険なスピードだが、いつか転ぶかもしれない恐怖よりも、いま凍える恐怖のほうが先に立った。
風向きのせいだろう。ジグザグ道の、「ジグ」向きに走るときは山壁で風がブロックされるためにそこまで寒くないのだが、「ザグ」方面の風の威力は凄まじく、格段に寒い。コストコの青果売り場みたいだ。「ザグ」道に入るたびに強冷風が全身に直撃してきて震え上がった。
ペンライトを使って走る体験は初めてだったが、うまくこなせた。めくるめく速度で移動するライトの輪を追い、光と影の形を目に焼き付け、足の置き場を瞬時に読む。何度か足元がぐらつきひやりとしたが、転ばなかった。何人抜いたかわからない。猛烈なスピードでぶっ飛ばした。
ついに下り切った。平坦になってからも少しの間は砂利道が続いたが、やがて滑らかなコンクリート道に変わった。難所は越えた。深々と嘆息した。転ばなかった。凍えなかった。「ありがとうございます…」神に感謝して安堵のため息をつき、酸素を吸い直そうとして、…できなかった。息ができない。喉が、詰まっていた。

驚いて立ち止まり、コホッコホッと空咳をした。しかし喉の塊はビクともしない。喉と、鼻も塞がっていて、空気の通り道が断たれていた。
うずくまって、手をついた。体を折り曲げ、反動をつけて咳をしてみる。腹筋がよじれた。なんとか絞り出した咳は勢いがなく、喉元までは届かない。ここまでの160kmで酷使してきた腹筋が、もう使い物にならなかった。ああこれはあれだ、お正月の定番のあれだ。ニュース番組のテロップが脳裏をかすめた。お餅を喉に詰まらせる老人は、弱った腹筋によって息絶えるのだと我が身をもって思い知る。見渡さなくとも、ここに掃除機がないのはわかっていた。自力で吐き出す以外、助かる道はない。
苦しい。そこらじゅう、のたうち回った。道路に顔を寄せ、地面を叩いて狂ったように咆哮する。手のひらの肉に鋭利な砂利が食い込んだ。走っているときは滑らかに思えたコンクリートの凹凸が、間近で子細に観察できる。コンクリの細かな亀裂に雨が溜まって、小さな川が流れている。ミニチュアの世界が視界いっぱいに広がって、そしてぼやけた。涙がにじんだ。
背中を地面に打ち付けた。はずみで痰が飛び出さないか、期待を持ったが無駄だった。七転八倒してなお、窒息し続ける自分を見つける。苦しい。
頭に浮かぶのは、理科の解剖の場面だった。実験台の小さな魚が、頭を切り落とされてからもビクビク元気に跳ねる様子が一層むごたらしく、異様に映った。痛点がないというのもわからなかった。苦痛を感じないとは、どういうことだろう。生命の不思議を目の当たりにしておののき、すぐに目を背けた。関わりたくない世界だと思った。理科が苦手だった。
呼吸ができない。苦痛しか感じない。あのときの魚が、いまの自分と重なって、また離れた。

まさか、死ぬってことはないだろう、と明るく思った。まさか。呼吸困難にひきつりながら、仕方なく笑った。たかが風邪ひとつ、たかが痰ひとつで死ぬわけがない。そう思う間にも、「たかが痰」は喉にぴったり吸い付いて、私を窒息死へと追い詰める。両手で喉をつかんで激しく苦悶した。苦しい! 苦しい! 息をさせろ!!

死が訪れるそのときは、もっと静かな時間だと思っていた。悟った風に、泰然として受け入れるはずだった。けれども体は勝手に動いて、命じてもないのに必死の抵抗を見せるのだった。こんなに激しくもんどり打って、生きよう、生きようとして見苦しく暴れる体を、哀れなようにも、けなげなようにも思った。そしてその体から抜け出せない、自分という存在とは。考えて涙が流れた。あとからあとから流れた。苦しい。苦しむしかできない。
呼吸ができない。
ヒックヒックと痙攣した。

「虫の息」という表現も使えない。息という息は、気管の中に固く密封されている。
窒息死とともに、凍死の危険も迫っていた。倒れた体に容赦無く、冷たい雨風が吹きつける。急速冷凍されたくなければ走るしかない。
よろよろと立ち上がって、試しにジャンプをした。だめだ。喉は開かない。
前のめりに二歩、三歩、よろめきながら何百回目かの咳を試みたとき、喉を塞いでいる吸盤が、一点緩んだような手応えを得た。風穴を感じる! 全身全霊、余力のすべてを振り絞り、渾身の力を込めてむせ倒した。
ゴボッと鈍い音がして、つっかえていた塊がとうとう取れた。再びへなへなへたり込み、震える右手で受け止めた。おぞましいほどの硬度と粘度でもって五指にベットリへばりつく。「たかが痰」が、ついに外気に晒された。世界中の排水溝の詰まりを凝縮させたような緑色に、血の塊が幾筋も混じっている。感触も見た目も、グロテスクそのものだ。
ようやく詰まりの取れた気管に、喘いで喘いで空気を送った。立ち上がって、走る。涙が止まらなかった。

この症状が、再発するのかしないのか、考えて怯えた。次こそ助からないかもしれない、という怯えではなく、この調子で立ち止まっていたら制限時間に間に合わないぞ、という怯えだった。助かった瞬間から一心に完走を目指している自分が、自分の知っている自分の姿で安心した。よし、その調子だ、完走するぞと、頬を叩いて自分を鼓舞した。

死を目前にしたときの体が表したとてつもない狂態に、圧倒され打ちのめされている自分が悔しかった。神なのかなんなのか、見えない力に操られているようで、ままならない体が不気味だった。自死を選んだ人々のことを心から讃える。すごい。自分にはできない。彼らはあの苦しみを耐え抜いてついに死ねたのだ。もっときちんと評価されて然るべきではと感じた。国は自殺撲滅キャンペーンとかやっている場合なんだろうか。善意の運動が、自死をやり遂げた者に対する中傷に思えてなんとなくつらかった。

死んだ人のことや、死に方のことを、ぽつぽつと取り留めもなく考えた。

登山の栗城さんが夏にエベレストで急死したときのこと。
第一報では低体温が死因だったのに、続報では滑落死に変わっていて、それに対して「また捏造した」とか、「かっこつけやがって」とか、意地の悪いコメントが散見され、私は、そうか死因にもグレードがあるのかと初めて気づいて、まあ確かに、言われてみれば、滑落死の方がドラマティックかもしれないなあ、などと思って一応納得したのだった。けれども今回もし自分が死んでいたならと考えるとやっぱり「痰詰まらせて死んだ」よりも「サンガスから滑落して死んだ」が絶対いいなあと強く思って、いいじゃない、死因ぐらい好きにさせてあげればいいじゃない! 変なふうに憤慨した。別に栗城さんの死因を嘘だと決めつけているわけではないですが。
もう何も、暴かれなくていいと思った。

栗城さんのご冥福をお祈りして、それから、ああよかった、と思った。自分は生きている。自分は死ねなかった。死なないでよかった。まだ。
死ななかった、と思うだけで、ありがたくて涙が容易にこぼれた。ぐすんぐすん、汚い顔で泣きながら、必死で走った。走れることがうれしかった。

2019年3月26日火曜日

スパルタ 続き3

完走文を書けないまま2018年のスパルタスロンが終わって半年が過ぎた。
レースが終わった後も喉はなかなか回復せず、覚え書き代わりの録音も今年は満足に残せなかった。
書こうにももう思い出せない。資料が乏しすぎる。記憶のディティールは薄れ、ただ「つらかった」という単純な感想を持つ。
それでも懸命にレースのことを考えていると、忘れていたいくつかのシーンがすごい精度で蘇ってきたりして、他人の記憶のように新鮮である。しかしそれらを、流れに沿って配置するのがむずかしい。完走証には通過タイムと距離とが載ってはいるものの、それが自分の思い出のどのへんに当たるのか、時空がうまくつながらない。大きい小さい記憶の断片が、脳みその壁にぶつかってあっちこっちバウンドする。
自分がはっきりわかるポイントは2箇所あって、コリントス80km(全体の3分の1)、サンガス160km(全体の3分の2)、ここは確実に思い出せる。
今はサンガスを目指しているので、現在地は140〜150kmあたりじゃないかと推測する。
後半、記憶は一層曖昧になる。
思い出さねばと全身でいきむたび、老化が進む気がしてならない。
走るのが体に悪いなら、それを思い出す行為もやはり体に悪いと思う。

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大きなエイドに河内さんとその仲間たちがいて、カレーを勧めてくれた。
細かく震える太ももを強く両手で押さえつけて、布張りのキャンプチェアにぐったり沈み込んだ。背もたれに寄りかかると腹筋がきしむ。カレーライスを猫背で食べた。
右手の震えが、プラスティックの軽いスプーンに正確に伝わってびよびよ揺れた。肩も腕も、自在にあやつれない。太ももの震えは筋肉痛によるもので、指先の震えは寒さによるものだ。腕は震えるというよりは痺れていて、口に運んだはずのスプーンが、右にずれ左にずれ、顎に命中したりした。
スパルタスロンのレース中、椅子に座って食事をするのは5年目にして初めてだった。
カレーライスは至福のおいしさで、緩慢な動作で口に運び入れると、あとはモリモリ食べられた。凍えて、歯がガチガチ言っていたため、合わせて咀嚼も自然にできた。スープが内蔵をじんじんするほど温める。ウケる。食欲があってウケた。
固形物が喉を通るかどうかが衰弱度の目安になる。自分はまだ末期には程遠いらしかった。
「坂東さんすごいええ調子で走ってんで。ついに完走やわ」と、河内さんがニヤニヤしながら教えてくれる。すでに感動を抑えきれていない様子が見て取れる。「えー、じゃあこの先も嵐まちがいなしじゃないですかー」と平板な口調を作って言った。
過酷と言われるスパルタスロン史上においてもとりわけひどいこの悪天候は、坂東さんの番狂わせによるものだ、と満場一致で話がまとまった。
スパルタ名物『坂東さんのリタイア』が今年は見られないと思うと若干寂しいものがあったが、それでもやっぱりよろこびの方が勝る。憎まれ口のひとつもふたつも叩きたいが、うれしいのは事実なのだから仕方がない。素直に祝福したかった。しかし豪雨には閉口した。猛烈な勢いでテントに叩きつけてくる雨音を恨めしく聞いた。
カレーを完食した。
雨は止まない。
空になったお皿の上をスプーンで無意味になぞる。わずかについてきたルーを舐めた。
ため息を押し殺し、重い腰を上げた。自分史上最高の、重く感じる腰だった。

とても眠い。
これまでなるべくレース中食事を控えてきたのは、食べると眠くなるからだ。
でももう、食べようが食べまいがどっちみち同じだった。食べる前から眠かった。眠くなることにかけては天才的な能力を発揮した。
自分の眠歴を振り返る。
小学校時代、給食の後の5時間目が得意科目だと悲しかった。無駄にしてしまうからだ。2時間目も3時間目も4時間目も、下手したら1時間目からうとうとしていた。放課後の合唱部では最後列の隅で起立しながら寝た。卒業式は練習でも本番でも睡魔に襲われた。中学では好きな先生がひとりいて、その先生の授業中だけ、眠くなろうとしても絶対になれなかった。好意を隠すためにわざと寝たふりなどして、かわいいところがあった。高校に入るともうかわいげは皆無だった。登校してすぐ朝弁をし、昼休みは丸々睡眠時間にあてた。美術部の物品庫で、キャンバスの陰に横たわったまま起きられず、5限に突入してもそのまま寝続け、顧問に見つかりかけて硬直した。あるいは5分休みにトイレに行ったが最後立ち上がれず、授業が終わるまでの45分間、仕方なく便座の上でぐらぐら眠った。授業中注意されたことは数えきれない。寝てしまう癖を除けば素行は悪くなかったので、優しい担任からは穏やかに注意されたが、厳しい教師には怒鳴られた。怒鳴られた2分後にまた寝ていて、クラス全体が凍りついたことがある。先生も私も、もうお互いどうすれば良いのかわからなくなって、何となく丸くおさまったのが良い思い出だ。職員室では「居眠り」の名称で呼ばれていたらしい。卒業させてもらえてよかった。大学の講義は出席さえしていれば怒られなかった。他のみんなもだいたい寝ていたからだ。付き合いで舞台やライブや講演会に行く機会が稀にあったが、決まって寝てしまうのでだれからも誘われなくなった。OLにならなかったのはデスクワークができないからだ。なりたくてもなれなかった。
自分が人より病的に眠たがることは間違いないが、病名がつくほどの疾患ではないと思っている。曲がりなりにもなんたってここまで死なずにこられたんだし、デスクワークとは無縁の人生を送る今、生きていて困ることはそんなにないからだ。でもウルトラマラソン中は困る。どうしても困る。眠くなられると困るのだ。こんなに明らかに向いていないスポーツを、なぜ選んでしまったのだろうといぶかしむ。眠くてかなしい。それでも、友人のコンサートの最前列で寝てしまった失態などを思い出すと、寝てもだれかをかなしませたりはしないだけ、マラソンはまだましに思えた。別に今寝たってだれにも失礼には当たらないんだから、それじゃあちょっとだけ、寝ま、す……。と、居直っておおっぴらに寝た。足だけ一応、動かしていた。

もうやる気は完全に失せていた。
夢遊病のように走っていると、日本人の方に保護された。
もうだめです。と言って同情を買い、一緒に走ってもらうことに成功した。
ベテランの方だった。たくさん話しかけてくれたが、雨音がうるさくて聞こえない上に、喉が痛むのでろくに相槌も打てない。会話にならなかった。
かなり長く並走したように思う。迷惑をかけていないかが気になって、何度か先に行きたいか訊いてみたが、本心で言っていないのがバレたのか離れずにいてくれた。
トイレの間も待ってくれた。うんちですけど…と言うと、ゆっくり歩いているからね、と優しく言って先行された。
ルートから離れた脇道にしゃがんでライトを消し、ふんばった。
「…くるちゃん!?!?」はじかれたような声がした。武内さんの大声だった。ライトの光が、まっすぐこちらに刺さる手前で、しゅんと夜霧に溶けていた。
「何してんの!!」「具合悪い!?」「眠い!?」「大丈夫!?」
「声が出ない!」が言えない。答えられずにいると矢継ぎ早に質問が飛んで来た。腕を大きく回して、生きていることを伝えた。「うんこ!?」の問いに、腕を縦におろしてうなづいた。片手でシャッシャッと空気を払って、「先へ行って!」のジェスチャーをしたら、「待ってるよ!!」と武内さんががなりたてた。声だけで、めちゃくちゃ元気があるとわかった。
急いで合流した。ジョイナーさんも一緒だった。「ずっと一緒に走って来たの!」と、元気いっぱいの武内さんが声を弾ませる。「ジョイナーさんおもしろいよすごくいい人だよ。」と、楽しそうに耳打ちしてくる。私がジョイナーさんを恐れていることを知っているからだ。おもしろくて、いい人で、なおかつこわい、というのは両立するんだけどなあ…と心の中で小さくぼやいた。

先行していた方とも合流して4人でサンガスのベースエイドを目指したが、坂道が始まると同時に私はみるみる遅れを取った。
武内さんが、何度も、何度もこちらを振り返った。
何度も何度も振り返り、「待つよ」の意思を伝えていた。
待たせたくなかった。
心配してほしくて遅れているわけじゃなかった。眠くて怠けて遅れているわけでもなかった。ただ実力で遅れていた。
遅れていることがプレッシャーになった。武内さんはともかく、ジョイナーさんに待ってもらうわけにはいかない。殻にこもろうと決めた。武内さんともう目を合わせないようにすれば、きっと理解して諦めてくれるだろう。心を閉ざして下を向く。1、2、3、4、歩数を数えた。できる限り大きな一歩を、前へと踏み出す。一歩。また一歩。傾斜に苦しむ。体が火照る。心拍が上がる。喉がゼーゼー言う寸前の、体温と呼吸のちょうど良いバランスを見極めてペースを作る。300、400、超えたあたりで数を見失った。新しく100、数え直して、上目遣いで前方を見た。人影がないことを確認して顔をあげ、遠くまで目をこらした。
黒々とした木立ちの重なりの中央に、道の先端がぽつんと点になって消えていく。真面目くさった遠近法に、刃向かうみたいにガシガシ歩いた。


2019年3月21日木曜日

スパルタ 続き2

雨がひどい。
雨が、勢いよく乱打してくるので満足に目を開けていられない。
夜闇の中で雨だけが活発であった。手加減なしに降ってくる。しかも一粒一粒がでかくて重い。悪意すら感じる。雨粒の中に隕石が混じっていても驚かない。凍えた皮膚がえぐれそうだ。
足元ばかり見て進む。時々は前も見る。
前を行くランナーの、ヘッドライトの明かりを見失わないよう努めた。前方のライトも進行は鈍かった。ライトが大きく迂回する動きで、水たまりが進路に立ちふさがっているのだとわかる。遠回りするのが嫌でそのまま直進すると、足首までざぶりと水が来た。深い。後悔して後ろを見ると後続ランナーはしっかり迂回していた。自らズブズブ深みに嵌りに来た自分のヘッドライトが、水面に反射してせわしく踊った。

雨がひどい。
雨がひどい上に眠い。
眠気対策として、あらかじめウェアの背には「I am sleepy.  Please wake me up /眠い起こして」と大きく書いておいた。せっかくのレースだ。普段の練習ではひとり孤独に走るだけだが、レースだと周囲にだれかがいる。もちろんあてにしたい。大会前日の説明会でも、レースの特徴やルール等の事務的な注意事項のあとは、「みなさん助け合ってゴールしてください」という道徳の時間みたいなマイルドな声かけで締められた。しかし校長先生的な通りいっぺんの説話ではなく、私は真剣に他力を本願していた。みなさんどうか助け合いしてくださいと心から願っていた。
しかしポンチョの中で「起こして」の文字はだれにも見つけてもらえなかった。話しかけてお願いしたいが、声も出ない。雨音のドラムロールにかき消されて、声もろとも、自分の存在までもが消滅していくようだった。

眠い。
だれかについて行きたいが、いまいちペースが合わない。
かと言って、抜き去って先行したくもない。この雨の中ひとりで走る元気はない。常に、前を行くだれかのライトが見える位置を保って進んだ。
大きな水たまりを迂回する際、道端へ寄ると、後ろから来たランナーと進路が重なった。
ゼッケンの名前が読めた。日本人だ! ついて行ってもいいかとお願いした。水たまりのおかげで至近距離で話すことができた。隙間風みたいなかすれ声でも会話が通じた。
いいペースだ。速い。ついに寄生先を見つけたと思った。このままこの人と一緒に走らせてもらおう。距離を稼ごう。どんどん先行ランナーを抜いていった。瞬間、雨音に違和感が混じった。フードの中に微かに、雨音以外の音波が届いた。
振り返ると発生源がいた。外国の知り合いだった。疲れ果てて2時間、歩き続けているそうだ。それじゃあ、と言って、お先に失礼できる感じじゃなかった。さっきの方にご挨拶しておかねばと、再度走り寄る。並走を頼んだばかりだったのに、なんと切り出せばいいのか、とにかくばつが悪かった。「あの…ちょっとあとから行きます…」モゴモゴ言って後退した。

エイドふたつぶん外国人と一緒に走ったが、ダート道に入るエイドで休むと言う。休むとたちまち凍えてしまう。私は待っていられない。別れることになった。
ひとりで走ると気が滅入った。あの調子では、ゴールまでは行けないだろう。おそらく先は長くない。感傷的な悲しみはなかった。むしろあるのは失望だった。なんで休むのと思った。呼び止めたのはそっちなんだから、もっといっしょにいてよと思った。考えることは、自分を生かすことだけだった。
寄生先を見誤った、と乾いた気持ちで反芻した。さっきの日本人を逃したことが、返す返すも悔やまれた。

ダート道のぬかるみを越えた。コンクリートの急坂を下る。調子は悪くない。スピードに乗った、その時だった。
足元を照らす光が弱まった。額からライトがずり落ちて変な方向を向いたのか。頭を振って光のスポットを探した……と、視界が完全に暗転した。スイッチを押しても引いても反応しない。なんとバッテリーが、終わっていた。
山に入るずっと手前でライトが切れた。闇夜はまだ序盤である。
充電はちゃんとした。実験もした。去年もこのライトで走ったし、台湾のレースでは二晩とも、このライトで越せたのだ。スパルタの一晩くらい、なんてことないはずだった。予備ライトはサンガスに預けてあるものの、それはメインで使うには頼りなさすぎる小さなライトだ。
想定と現実とがまったく合致していなかった。なぜだ、なぜ切れたのだ。予定より早い位置で夜を迎えてしまったためか。ライトトラブルは想定外にも程があった。
土砂降りに恐れをなした自分が、知らず知らずのうちに光量をあげていたのだろう。明るさをマックスにするとバッテリーがこんなに早く落ちるなんて知らなかった。寒さのせいもあるかもしれない。そういえばスマホも、寒いと電池の消耗が激しかった気がする。気のせいかと思っていたが、あれはこういうことだったのか、スマホ。
勉強になった。勉強にはなったが、レースの最中に勉強しているようではどうしようもない。穴だらけのレースプランに頭を抱えた。

道は真っ暗だ。
数歩、足を踏み出してみたが恐怖で身がすくむ。観念して後続ランナーの訪れを待った。
辿ってきた道を祈るように見上げていると、やがてライトが近づいてきた。際立って細い脚のラインと上半身とのバランスが、独特だったので覚えていた。時々エイドでお見かけしていた日本人の方だった。ライトをつけずに立ち尽くす自分のシルエットが漆黒の闇と同化して、見つけてもらえない恐れがあった。大きく手を掲げてにじり寄る。うざくて申し訳ないがついて行かせてほしい。事情を話すと、足を止めてくれた。ヘッドライトの光が眩しくて顔が見えない。相手の心境がわからなかった。止まらせるつもりではなかったのだ。かたじけない。「いや、勝手について行くので気にしないでください」と言おうとしたら、大きなリュックからペンライトを取り出して持たせてくれた。「100均のライトだから返さなくて良い」ともおっしゃった。えっそんな! 恐縮しているうちに先に行ってしまわれた。ライト云々は別としても並走させてほしかったが、ライトを与えられた手前、なおも並走を求めるのはおかしい気がして遠慮した。ライトは絶対にちゃんと返して、まともな人だと思われようと決心した。
ポンチョに引き続き、またしても救命道具がもたらされた。
ライトはとても明るかった。道は再び照らされた。

「助け合い」の「合い」の部分が欠けている。助かるだけ助かっている。
助けられるだけ助けられて自分ばかり、できそこないの完走にしがみつく。

2019年3月19日火曜日

スパルタ 続き

コリントスエイド、ランナーたちが緑の計測マットを踏む瞬間を、大会カメラが待ち構えている。カメラには目もくれず腕時計を厳しく見やって走り抜けた自分を、ビジネスマンみたいでかっこいいと思った。腕時計を装着するのは年に一度、スパルタスロンの時だけだ。カメラマンは、一分一秒を惜しむ私の腕時計姿をちゃんと撮ってくれただろうかと気になった。ウィダーインゼリーを10秒チャージとかして、多忙ぶりに磨きをかけたいところだった。

武内さんと、互いを短くねぎらった。
サポーターの方が日本人向けに特別メニューを用意してくれていた。ありがたく素麺をいただく。上顎と舌とで挟んで柔らかな麺をすりつぶし、喉に流し込んだ。塩分が全身に染み渡る。食べ物をおいしく感じるということは、まだ力が残っているということだ。味覚もしっかりしていた。食欲はあったが咀嚼を億劫に感じて、おにぎりは見送った。
小雨が降っていたんじゃなかったか。靴下が冷たいと思った。
右足裏の土踏まず側面に靴擦れの痛みがあった。痛みのせいで、右足が、左足の足をひっぱっていた。「足をひっぱる」の慣用句を実際に足に用いると話がややこしくなることがわかった。痛い方の足がもう一方の足を牽引しているような誤解を生む。逆である。足をひっぱられているのは左足のほうだ。考えて混乱した。
右の中敷を抜くことにした。靴を脱ぎ履きする間、私服の梢さんが肩を貸してくれて優しかった。なぜ梢さんがここに。リタイアしたのか。「なぜ」と聞くのと聞かないのと、どちらが野暮なのかわからなかった。どんな表情がふさわしいのか、呼吸がいつまでも整わないのをいいことにして顔を歪めた。
右の靴を履き直して、結局左の中敷も抜いた。左右のバランスが悪くなると思ったからだ。梢さんが中敷2枚を預かってくれた。何か励ましの言葉をかけてくれたと思う。あたたかかった。自分が梢さんにかけるべき、当たり障りのない言葉を探したが見つからず、使えない言葉にまみれながら武内さんに先行してエイドを出た。

右足、左足がバチンバチンと地面を打った。
中敷のエッジが皮膚を削る違和感はなくなったが、着地のたびに衝撃を感じてヒヤリとする。自分は脚が丈夫だと思っていた。長距離レースで膝を傷めた覚えはない。これまで中敷を抜いて走った経験はないが、シューズ本体に厚みがあるから大丈夫、と判断した。しかし無謀な選択だったのか。コリントスに着いたことで安心して、気が大きくなっていたのかもしれないと悔やんだ。
まだ200mも進んでいない。今なら戻れる距離だった。それでも、ついさっき力強く送り出してくれたばかりの梢さんと、また顔を合わせるのは気まずかった。梢さんが走っていないことをさみしいとも思ったし、ずるいとも思った。梢さんを探し出せたとして、また中敷を要求するのはお騒がせすぎる。ない。戻る選択肢はない。
雨で道は荒れるだろう。ぬかるみがクッションになるはずだ。前進を続けた。

自分のレース展開はいつも、前半のスローペースから徐々に上昇するスタイルになる。
体調不良と決めつけていたが、案外今年もいけるんじゃないか。
例年通りなら、ここからぐんぐん貯金が増えるはずだ。希望は捨てていなかった。
コリントスまではがむしゃらに走りすぎた。よく頑張った。もっと気楽に行こうと思って力を抜くと、たちまち貯金が減った。萎えた。
やっぱりだめかと思うと悔しい気持ちも湧いてこない。
この一年掲げてきた30時間切りの目標を失って、あとはただ完走すればいいだけだと思うと頭がぼんやりした。眠気を感じる。
…眠気。これは眠気だ。眠気を自覚したことで、緊張感が戻った。この状態では完走だって危うい。気がついて立ち直った。

薄暮の街並みに、小柄な女性ランナーの後ろ姿が見えた。
…ジョイナーさんだ。屈伸をしている。呼びかけようと息を吸い込んで吐き出す。吐き出したはずの声が、声にならなかった。喉を整えようと咳をしたが、腹筋が痛んだだけで咳の音も出ない。「あ」から「お」まで、全ての子音を試したがやはり出ない。自分の体がいつの間にか防音機能搭載になっていて、声が外に出ていかない。
足音で振り向いたジョイナーさんに、口をパクパクさせてみた。
「お疲れさまです」は音にならなかったが、「足、大丈夫ですか?」の、「だいじょうぶ」の部分はかすれ声で発語できた。濁音は出やすいようだった。
「空気乾燥してるからね」と言う、ジョイナーさんの声もひび割れていた。「ジョイナーさんも喉やられました?」と聞こうかと思ったが、「もともとよ」と怒られそうなのでやめた。
雨でも乾燥するとはさすがギリシャだった。

鼻水が止まらず、喉が痛んだ。唾を飲みこむと激痛が走る。じゃあ飲み込まなければいいのにと思うのだが、どうしてだか定期的に唾を嚥下したくなる。飲み込むと痛い、わかってはいても、飲み込みたい欲求に抗えない。痛い。エイドにあった蜂蜜を口に含んだ。蜂蜜を通すと喉の痛みは劇的にましになった。握りしめた蜂蜜のチューブを少しずつ吸引しながら走った。蜂蜜が切れると唾責めに襲われる。痛みに悶えた。蜂蜜が手放せなくなった。

少し眠い。
雨が強く降ってきた。
エイドでゴミ袋をもらってレインコートにしようと思ったが、着込むとあたたかさで眠気が増しそうだ。寒いので汗はかかない。給水の必要はなく、常時蜂蜜を吸っているためカロリーも足りていた。無駄にエイドに寄ってタイムをロスしたくない。しばらくは寒いまま、エイドをパスして走り続けた。

坂の向こうのエイドに、ボランティアの坂根さんの姿を見つけた。やさしくしてくれそうな人が恋しかった。寄るべきエイドだった。
指先がかじかんで蜂蜜のチューブの蓋が開けられない。寒い。
「ビニール袋…」とかすれ声を絞り出すと、「ないの。あげられないの。」と思いがけない返事が返ってきた。声が出ないせいで通じなかったのかもしれない。喉を持ち上げて、「え、でも、あれ…、プラスティックバッグ…」と他のスタッフにも助けを求めて必死でゴミ袋を指さした。「ダメダメだめなのあげられないの。」低いトーンに驚いて顔を見ると、坂根さんはうつむいて、蜂蜜のキャップをひねっていた。
「ない」とは、「あるけどあげられない」を意味していたのだとやっと気づいた。寒いのは私だけじゃない。だれもが雨よけにゴミ袋を続々希望してキリがないから、配布が禁止になったのだろう。毎年エイドのゴミ袋で寒さを防いできたので、今年も当然のように甘えてしまった。本来自分で防寒着を用意するのが筋である。自分が防寒着を預けたエイドは…。考えて呆然とした。40km先だ。ちくしょう、想定タイムが強気すぎた。予定から大きく遅れて、寒さが限界に近づいていた。もっと速く走れたら体も温まるのだろうが、もう体力がない。参った。他のエイドでもやはりもらえないだろうか? どこか道端に、ビニール袋は落ちていないだろうか。まずいことになった。
……考えていると、坂根さんが「ちょっと待って」と言って険しい表情のままテーブルを離れた。目で坂根さんを追いかけてハッとした。白っぽいビニールがその手の中に隠れて見えた。他のスタッフの視線を遮るように彼らから背を向けて、坂根さんが体ごとブツを押し付けてくる。映画でよく観る、拳銃の受け渡しみたいだ。
坂根さんを危険に晒してごめんなさいという申し訳なさと、他のランナーに対する申し訳なさと、かと言って御厚意を断りはしないことへの申し訳なさと、なのに申し訳なさだけは感じている申し訳なさと、いとしさと切なさと心強さと申し訳なさと、あとはただただ、尽きることのない感謝があった。坂根さんにほとばしる感謝を伝えたかったが、裏金ならぬ裏ビニール、秘密裡の授受である。こわばった顔で受け取ってすぐ、走った。目頭が熱かった。
走りながらビニールの塊をほぐした。広げると、ポンチョになった。頭からかぶる。やわなビニールじゃない、分厚い素材のポンチョだった。袖もあった。フードもあった。フード紐まで付いていた。お尻まですっぽり覆えた。雨が防げる。風も防げる。ゴミ袋どころじゃない。特級の救命防具を私は手に入れた。
腕を振ると、ビニールがこすれてガサガサ言った。
出ない自分の声の代わりにビニールが、「リタイアしたらぶっ殺す」と、しゃべった気がした。

(そして今、ビニールがピエールに見えてしまって仕方がない。2019/3/19)

2019年3月14日木曜日

強い体験を求めるから、自分はスパルタスロンに出るのだと思う。
刺激を望んでいるのだと思う。

走ると気持ちが良い。
意欲が湧く。
視点が変わる。
新しいアイディアが浮かぶこともある。
痩せる。
やりすぎると苦しくなる。
眠れない。
幻覚を見る。
体を壊す。

「あの頃さ〜、ウルトラマラソン合法だったよね〜。みんなすごいキメてたよね〜、時代だね〜」
とか言い合う日が来るんじゃないか。
次の元号の頃には

2019年3月13日水曜日

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完走文を下書きして、公開する。
公開するには勇気がいる。
たいしたことを書いていなくても、やっぱり勇気はいる。
いつ公開するのかも迷う。
震災の日は避けよう、とか、友人の失踪した猫が帰ってくるまで待とう、とか、あれこれ悩む。
なるべくなんでもない日にしようと思って、迷ったあげく昨日やっと公開できた。
そしたら瀧さんが逮捕された。
木曜たまむすびがもう聞けないなんて


自分にとってラジオが聞けなくなることは猫の失踪と同じくらい大きな喪失なので、友人にはそういう出来事として理解してほしい。

友人の猫は帰ってきた。
瀧さんも早く帰ってくるといい

2019年3月12日火曜日

2018 スパルタスロン スタート

スタート地点は雨だった。
上着は持っていなかった。
身を縮めてランナーたちの人混みに紛れた。
武内さんに密着して寒さを訴える。武内さんじゃない人にもふざけた勢いでくっついた。くっついて羽交い締めにする。切実に寒い。無性に心細かった。

時間が止まることはない、だから大丈夫だと言い聞かせた。大丈夫、心配しなくても時間は経つ。私は必ず、36時間後、のどこか、に行ける。36時間が済んだらもう、よろこぶなりかなしむなり、私は勝手にやっているだろう。時間が進んでいることを、ただありがたがっていればいい。
結果は出る。出そうと思わなくても出る。それが悪い結果であれ、結果は結果だ。

これから自分が走るという実感を、持たないままでいたかった。しばらく脳死するから、その間に結果がひとりでに転がってくればいいのにと思った。ひたすら受け身でいたい。レースがスタートすれば自分のすべきことは走ることだけなのに、たぶん自分は何かしら、考えたり感じたりしてしまうだろうことが不愉快だった。

プーン。
号砲が鳴った。
耳元をかすめていく蚊みたいな、間の抜けた音だと思った。

周りのランナーに揉まれるように前進する。
36時間が減りはじめる。
武内さんについていけない。
よく眠れたにも関わらず、体が重くだるかった。
「うーん走れないほどじゃないですけど…。」頭の中で煮え切らない問診をした。現に今、ともかくも走れてはいるのだった。第一エイド通過。武内さんの後ろ姿はとっくに見えなくなっている。呼吸が浅い。
自分が走れる最速ペースが、関門閉鎖の設定タイムより少しだけ速かった。常にギリギリで、危うく関門を突破した。もう少しペースをあげないと、と思う。焦るが足が上がらない。走り出した瞬間からもう、100km走った後みたいに疲れていた。もしも関門に引っかかったら、私は後悔するだろう。後半に向けての体力温存を頭から消した。今できる作戦は、とにかく次の関門に間に合わせることだけだった。呼吸を乱してスピードを上げる。関門通過。時計を見る。嘘だろと思う。もう一度見る。貯金は2分しか増えていない。こわい。200km走った後みたいだ。おびただしい量の発汗だった。コップの水を飲み干す間、呼吸ができずに激しくむせた。心臓が上下する。
必死で関門を越えたとしても、すぐまた次が立ちはだかる。次を乗り越えても次がある。そして次、また次。走り続けている限り関門は続く。なんと苦しいのか。
リタイアしたいと思った。

とても具合が悪い。
とても具合が悪い! 先生! とても具合が悪いです!
最初の問診ごっこでは、「さあ、仮病じゃないですか? スタートでは元気そうだったじゃないですか。」と軽くいなしていた医者こと自分も、非常事態と悟って多重人格が引っ込んだ。まさか自分が、自分から「リタイアしたい」と言い出すとは思わなかった。急に深刻な気分になった。

ギリシャに着いてから風邪をひいた。軽い風邪だ。本番までは3日もあった。3日もあったのに咳を引きずった。当然治すべきだった。べき、で言うとそもそも風邪なんかひくべきでは絶対になかった。
大会当日、起き上がると頭がグラグラした。体を起こすと冷や汗が出る。可能な限り横になっていたい。バスに揺られると吐き気がした。
本物のお医者さんこと大滝さんに、おでこに手を当ててほしいとせがんだ。熱はなかった。「走っているうちに治るよ。」と大滝さんは言った。武内さんもそう言った。
ただひとり心配顔で「やめといたら?」と言ってきたのは外国人で、私は「わかってないな」と思った。やめるわけないだろ。

でも今となってはやっぱりとにかく絶対断然一刻も早くもうやめたいのだった。
横になりたい。リタイアしたい。横になりたい。こんなんじゃ100kmだって走れない。横になりたい。もうやめ、やめだ。
リタイアを決意した。

ところがいざとなるとストップを口に出せず、意志が弱いばかりにうっかりレースを続けてしまった。しかし苦しい。いつかリタイアするなら早くやめたほうが得だよなあ、と惰性で足を進めながら損得勘定を働いた。次こそリタイアしなくては。それでもやっぱり行動に移せない。自分はリタイアを、自殺か何かと同等の重さで考えているのかもしれなかった。…大げさな、たかがリタイアごときで。鼻で笑っていよいよリタイアを心に誓ったのに、またしてもつい、次の関門をパスしてしまう。リタイアできない小心を呪った。なんとか折り合いをつけようとして、ゴールしてからリタイアすることに決めて手を打った。

沿道に知り合いの姿を探した。日差しが出たらかぶろうと思っていた帽子を預けたい。天候は雨、気温は極めて低かった。この体調で、もし例年通りの暑さだったら、リタイアを迷う間も無くあっさり終わっていただろう。この異例の涼しさは、神が自分のために用意した特別措置に違いないと思って感動した。今の自分には何でもいい、すがりつくための無邪気な信仰が必要だった。じゃあ風邪とかひかすなよ神、と思うと妄信が薄れかけたが、前向きな気持ちが芽生えたことは収穫だった。
エイド付近の群衆の中に、いかにも自分を知っていそうな顔でエールをくれた外国人がいた。これ幸いと帽子を押し付ける。自分も、なんとなく見覚えがある顔だったように感じた。何年も出続けていると、こういうところで融通がきく。帽子の分だけ身軽になった。
空いた両手を小刻みに振る。
リタイアしようとはもう思わない。
42km関門クリア。
貯金は7分。

米粒大ほどの、武内さんらしき姿が遠く前方にちらついた。
今日の体調で走ることに体がだんだん慣れてきた。次の関門にも間に合うだろう。いくらか安堵した。
早く武内さんに追いついて、「走っているうちに治るよ」と適当にあしらってほしいのだが、なかなか近づけない。他ランナーの影に隠れて、見えたり見えなくなったりする小さな後ろ姿を追い続けていると船酔いのようになってきた。諦めてうつむきがちに足を早め、やがてエイドで追いついた。
去年と同じ、55kmのポイントだった。
一言、二言、ことばを交わした。
このままついて行きたかったが、オーバーペースで追いかけたため、あとが全然続かなかった。みるみる遠ざかる武内さんが軽く後ろを振り向いた。声が届く範囲だったら、「行かないで」とか言ってしまいそうだ。言えば立ち止まってくれるだろう。言わずに済んでよかったと思った。「大丈夫です」の意を込めて、武内さんにうなづいて見せた。
その後も時々、前方エイドで姿を見かけた。目視はできてもそこまでだった。付かず離れずのペースで行きたかったが、実際は、「付かず離れる」という距離感で切なかった。

70km過ぎでようやく捉え、武内さんとの並走が叶った。
だらだら続く上り坂でまた離されるかと思ったが、こらえた。
「走ってえらいね」と褒めてくれた。走りながら武内さんは「え〜らいえ〜らい、アキコ走ってえ〜らいよ〜おハイハイ」みたいな鼻歌を歌っていた。ソーラン節から骨を抜いたようなメロディだった。「アキコえ〜らい、くるちゃんもえらい〜」と無造作に付け足すあたりに余裕を感じて鼻白む。ここからしばらく坂が多いと知ってはいても、上りっぱなしが続いてうんざりした。褒められてもどうも思わなかったが、歩くランナーを抜かすごとに生気が確実にチャージされた。

坂道をいくつかやり過ごして81km、最後の坂道を上りきったらコリントスだ。
大エイド、コリントスにはふたり揃って到着した。
ここまで来られたら、とにもかくにも一区切りの感がある。ここから先は関門の時間制限が甘くなる。少しの楽観が許された。
貯金は20分あった。


(ここまで書いて、武内さんに通過タイムを聞いてみた。ガーミンのデータを辿ってくれた。それから、「完走証にタイム載ってるから見てみなよ」と言われてはじめて完走証中央部の数字の羅列に気がついた。ご親切なことに、スタートからゴールまで、途中途中の通過タイムが12箇所も記してあった。迷惑メールのアドレスみたいに、無作為の英数字を並べた、意味ありげなだけの単なるデザインだと思っていた。5年目にして完走証の使い道を知る。記録によると、私の通過は42km関門15分前、81km関門40分前で、記憶違いが炸裂していた。数字で見ると自分が覚えているよりも余裕のレース運びだったようで、信用のできない語り手ですみません。今後は完走証のデータに忠実に進めます。)