後頭部ビジネス

若木くるみの後頭部を千円で販売する「後頭部ビジネス」。
若木の剃りあげた後頭部に、お客さんの似顔絵を描いて旅行にお連れしています。


*旅行券の販売は現在おおっぴらにはしていません。*

2019年5月7日火曜日

スパルタ ゴールは遠ざかる

あと50kmで終わる。
200kmより、100kmより、50kmは短い。もう少しの辛抱だ。
リタイアしていないのが不思議なくらい心身ともにボロボロだった。そのくせ「少しでも早くゴールしたい」とは思えない自分がいた。毎年着実に伸ばしてきた自己ベストを、今年は更新できなかった。ガクンと落としてしまった成績を、どうやって受け入れたらよいのだろう。タイムや順位といった数字以外の部分で、意義あるレースだったと感じなければならない。そのためには制限時間を目一杯使って走ったほうが濃い内容にできるのかもしれないと、貧乏くさく計算した。
ただの完走で終わらせたくはなかった。
すぐムキになって、優勝争いに絡んでいるわけでもないのに「1秒でも速く!」と限界まで追い込むのが自分のこれまでのゴールだった。一生懸命と言えば聞こえはいいが、行き過ぎたハングリー精神が暑苦しくもあった。ずっと苦手としてきた「レースを楽しむ」という新境地に至る、今がチャンスだった。一生懸命のワンパターンから卒業するしかない。
そうと決まれば、焦ることはなかった。のんびりと和らいだ気持ちで走る自分を、たしなめる厳しい視点は持たなかった。

青いサポートカーがクラクションを鳴らした。
窓から顔を覗かせたのは途中一緒に走ったはずの外国ランナーで、リタイア済みの気楽な笑顔がはじけていた。
道の脇に止まった車に駆け寄って、「なんで!?」と大げさに嘆こうとしたが、うまくいかなかった。「ありゃだめだな」ととっくに諦めていたからだ。リタイアに対する驚きはなかったが、また会えたことはうれしかった。
「グレート! アメージング! グッジョブ!」
無邪気に応援してくれる相手の笑顔に釣られて自分も思わず笑ってしまい、外人はリタイアすらも陽気だなと尊敬の念を持った。悲壮感の全くないリタイアは、むしろ清々しく新鮮に感じられた。
何か欲しいものはないか聞かれて、甘いバニラ飲料をもらった。クーラーバッグの中でドリンクはすべてキンキンに冷やされていた。缶を持つ指先に感覚がない。「寒い」と体をさすって衣類もよこすよう要求した。この時点ではまだそれほど、強い寒さを感じているわけではなかったのだが、自分にはわがままを言う権利があると思った。車内はあたたかいだろうなあ、少しだけでいいから寝たいなあ、リタイアかよいい身分だな、と思うと苛立ちが急激に募り、ぶんどったウインドブレーカーを仏頂面で着込んで走った。

走っても走っても、体が温まらない。ペースが遅すぎるせいだ。コースは上り坂に入り、疲労はいよいよ限界だった。寒さに身を縮め、やっとの思いでエイドに達した。
「味噌汁あるよ!」という河内さんの誘いにつられ、駐車場の向こうのロッジまで歩いた。とにかく最短でゴールしたい普段の自分なら、絶対に取らない行動だ。しかしどうしても寒かった。小刻みに震えながら、とにかく体を温めなければと思案した。何か服を借りられないかお願いすると、「ないなあ」と困った顔で、それでも「Tシャツなら!」と新品の大会Tシャツを恵んでくれた。シャツの袋を開封する様子を見ながら、だれかへのお土産だったのかなと申し訳なく思ったが、手に持った紙コップのお味噌汁がこぼれるほどガタガタ震えて、「大丈夫」とは言えなかった。
エイドを通過する選手たちを眺めながらぼんやりお味噌汁をすすっていると、武内さんの姿が現れた。河内さんがエイドまで走り出ていく。着ていた黒いレインパンツを脱ぎ捨てて武内さんは、そのままゴールに向かって行ってしまった。てっきり一緒に休憩するものだと楽しみに待っていたのでがっかりした。自分ももたもたしてはいられない。早く出発しなくては。そう頭では思うのだが、足を止めたせいで寒さはかえって増していた。お味噌汁の温もりは全身までは回らずに、震えがいつまでも止まらない。体が出発を拒んでいた。
ロッジからさっきの外国人が出てきた。「寒い寒い」と訴えると、さっとフリースを脱いで自分に着せてくれた。ギョッとしたのはフリースの下が裸だったからで、自分は動揺を隠すように乳首に貼られた絆創膏を凝視した。擦れ防止用の絆創膏が、雨に打たれてひっそりと寒々しかった。そうだった、この人もさっきまではランナーだったのだ、と我に返ってハッとした。リタイアの悲しみに追い打ちをかけるような真似をしてすまない。こちらが悲しくなった。山賊みたいに身ぐるみ剥がしてしまった。
私にフリースを着せて外国人は、「ロッジにストーブがあるから、暖まって行け」と言う。断ると、「時間はたっぷりある。なぜ急ぐ。WHY!?」となじるような顔をする。
お前、リタイアしてなかったっけ? と悲しみから覚めて私は思った。時間はたっぷりあるなんて嘘だ。そんなぬるい気持ちでいるから安易にリタイアするんじゃないのか。相手を手厳しく断罪した。言葉が通じないのが幸いだった。
お前にはリタイアがお似合いだ。そして私は完走に向いている。
心の中で捨て台詞を吐いて、エイドを出発した。フリースのなめらかな温もりが自分の尖った気持ちをやさしく撫でた。武内さんの背中を懸命に追いかけた。

追いついて一緒に走った。眠い自分は少しずつ遅れた。振り向いた武内さんが迷惑そうな顔で「そのペースで間に合うの?」と喝破してきた。うるせえ。自分は「さっき、時間たっぷりあるって言われたもん」とふてぶてしく返してから、その情報源は信用ならないことを思い出してにわかに不安になり、「間に合わないの?」と恐る恐る聞いた。「あと6時間で40km。ちゃんと走らないと厳しいよ」武内さんが時計を睨みつけて言う。重ねて「この区間にこれだけの時間かかっているからこの調子で通すつもりならもう本当に無理。」と直近のデータを突きつけられ、私はようやく開眼した。「どうしよう!?」慌てて武内さんに食ってかかった。
このままでは間に合わないことは理解できたが、足がどうにも動かなかった。自分は「わかるけどこれ以上速く進めない!」と悲痛な声を振り絞った。武内さんは無言だった。

絶望的な展開だった。ここまできてゴールできないなんて、と歯を食いしばって涙をこらえた。嗚咽で息ができなくなりそうなので、口を開けて酸素を吸った。
喉に余計な雑菌が入らぬよう鼻呼吸で走ってきたが、もうどうにでもなれと観念して口呼吸に切り替えた。パワーがみなぎるのがわかった。一拍置いて、足が動いた。足の回転についていこうと「ハア、ハア!」激しく呼吸しているうちに、潰れていたかすれ声も、音声としてはっきり出てくるようになった。
「あきちゃん!! 走れるようになった!!」クララが立った瞬間の感動に撃たれて、武内さんに絶叫した。

ウルトラマラソンには復活がつきものである。もうダメだと思っても、ひょんなきっかけでケロッと生き返ったりする。でも、何度復活を経験しても、復活の奇跡に出逢うたび、毎度心からびっくりする。こんなに何度も奇跡が起こるならそれはもう奇跡ではないのだろうが、それでもやっぱり奇跡だとしか言いようがない。さっきまで動かなかった体がどういう仕組みで復活したのか、わからないまま夢中で走った。

まともに走れたために体温が上がり、暑いと感じるようになった。フリースを脱いだ。さっきの外国人は本格的に我々の専属サポートをすることになったらしく、エイドごとに回り込んで待ってくれていた。自分も、エイドが近づくと青い車をまず探した。彼のリタイアは私たちをサポートするためにあった。そう錯覚するほど、献身的な支えだった。ありがたく防寒着を車に預け、ふと、サポーターの接触エリアは数カ所に決まっていたはずなのに、こんなに度々お世話になって良いのだろうかという疑念が湧いた。ルール違反じゃないのか、眉をひそめて尋ねてみると、台風のため全エイドでサポートが許可されたとのことだった。悪天候が原因のルール変更があったということは、制限時間を待たずしてゴールが閉まる可能性もある。天候の悪化によってレースが中断された前例が国内にいくつかあった。ゴールが封鎖される前に、さっさと辿り着かなければ。武内さんと顔を見合わせて先を急いだ。

私が死にそうな声でゼーゼー喘いでいると、「くるちゃんそんな飛ばさなくても大丈夫だよ!」武内さんが見かねて声をかけてくれた。「貯金増えたよ!」時計を見て、にっこりする。
武内さんはビデオを回し始めた。「すごい風です!」とビデオカメラに向かって余裕の表情で実況している。最後のふたつの急坂は走らないと決めて、「風ー!!」と雄叫びをあげながら、楽しんで歩いた。
坂道の上の方に黒いワゴンが停車した。恰幅の良いシルエットが車から身を乗り出し、こちらへ手を振る。何かとひいきにしてくれるカメラマンだった。自分たちもカメラに向かって走り寄る元気がまだあったりして、ここまで来たらもうゴールしたも同然だった。とうとう終わる。隣に武内さんがいる幸せを噛み締めていた。

坂道を登り切ると眼下に広がるのは海である。遮るものは何もない。えっちらおっちら、坂の頂点へと一歩進むごとに、猛烈な暴風雨が勢いを増して我々に襲いかかった。「風すごー!」とか言ってお気楽に笑い合ったついさっきまでをなつかしむ。息もできないほどの突風が間髪入れずに飛びかかり、腰を折り曲げひたと足裏で踏ん張った。もったりした重たい砂の中をかき分けるように苦しく前進していると、腹にパンチを食らって耐えきれずよろめいた。強力な突風にみぞおちを殴られたのだった。「ぶわっ!」と呻いて180度回転し、後ろを向いた。すると視線の先には武内さんが遠くいて、小柄な彼女はその一瞬で数メートルも後方に飛ばされ、坂からずり落ちそうになっていた。「ぎゃー!」と叫んで駆け寄り抱きすくめると、武内さんは「今のやつ撮りたかったー!」とビデオチャンスを逸したことを悔やんでおり、プロ意識が高かった。「すごくなかった!? 何メートル飛ばされたことにする!? 10メートルはやりすぎかな!?」と、興奮した武内さんに話をどれだけ盛るか相談を持ちかけられ、「うーん2~3メートルだと思うけど…、せめて5メートルにしたら?」と、あいだを取って答えた。体感としては実際5メートルくらいの勢いはあった。けれどもその5メートルに自分と武内さんとの体重差が落とし込まれていると考えると、誇張の片棒を担ぐことに抗いたい見栄もあった。私は回れ右をするのがやっとで、1ミリたりとも飛ばされませんでした。

くだらぬ談合をしながらふたり抱き合って動けずにいると、がっしり大きい外国のランナーが助けに来てくれた。私と外国人とで両側から武内さんを挟み込むようにガードして歩いた。
「ホエアー、アー、ユー、フローム!」
至近距離で怒鳴り合っても声が届かないくらい、風が轟々と猛っている。武内さんを支えていたはずの自分は、いつの間にか外国人にかじりつく格好になっていた。隊列は乱れ、風の吹き抜ける隙間を潰すように、三者の腕はこんがらがってひとかたまりにもつれている。動力は主に外国人が担っていた。ワシワシ歩く外国人にひしとしがみついて、3Pありがとうございます。と感謝した。

目前だったはずのゴールがどんどん遠ざかってゆく。最後の最後で暴風を食らって、歩いても歩いても距離が縮まらない。
雨、風、坂のトリプルコンボが完走を阻む。さすが、過酷が売りの大会だけあると思った。過酷オプションの充実ぶりが素晴らしい。
いくらかでも貯金があったことは僥倖だった。ギリギリのタイムでここに突っ込んでいたら、精神的にも体力的にも、とてもじゃないけど保たなかった。
「まだ大丈夫」
「まだ大丈夫?」
貯金は減り続ける。進まない距離に焦りは募るばかりだった。

「ただの完走で終わらせたくない。」そう考えた、3時間前の自分が頭をよぎった。思えば傲慢な考えだった。
「私のまちがいでした。ただの完走でいいです。」涙ぐんで心から思った。
「ただの完走で十分なので、どうかどうか完走をください。」
ただの完走が美しかった4年前のゴールを思い出した。
時間がどうの、順位がどうの、こだわっていた最近の自分が小さく思えた。今はただただ完走させてほしい。望みはそれだけだ。
欲を捨て、解脱に近づいた自分がいたが、完走への執着だけは捨てられなかった。