後頭部ビジネス

若木くるみの後頭部を千円で販売する「後頭部ビジネス」。
若木の剃りあげた後頭部に、お客さんの似顔絵を描いて旅行にお連れしています。


*旅行券の販売は現在おおっぴらにはしていません。*

2019年5月8日水曜日

スパルタ・了


雨によるダメージを仮に5とする。
風によるダメージを仮に5とする。
では雨と風、ふたつがタッグを組んだときのダメージは足して10になるのかというと、ちがう。雨風によるダメージはかけ算して25、もしくは計算を無視して、ダメージ50でもダメージ500でも良い。雨で濡れた体に強風が吹き付けると体感温度は信じられないほど低くなる。吹きさらしの平地をなんとか越え、飛ばされるほどの突風はいくらか収まったが、雨は依然として降り止まず、一旦下がりきった体温はいつまで経っても戻らなかった。心身の消耗が刻々と進んでゆく。
エイドで待つサポートカーから、再び防寒着を調達した。ゴアテックス素材なのか、安心感ある見た目の、ごついアウターを貸してくれた。あまりに寒く、止まると震えがわなわなと立ち上がってくる。ポンチョの上から袖を通し、走りながらファスナーを閉めようとしたが、指先が思うように動かず苦心した。

ファスナーが上がった。しかし体温は上がらない。(うまいこと言った)
首元をかき合わせると、リボン状の紐が指に絡まった。フードから剥がれた止水テープだった。借りたゴアテックスは防水機能が効かないらしく、雨を吸った丈夫な布地はずっしりと重たく肌を圧迫した。
「くるちゃんそれ、すごい重くない? 鎧みたいだよね。」武内さんが言った。武内さんも途中でこの防寒着を借りて、でもその割には確かに一区間で脱いでいたなと思い出した。もっと早く言ってよと思ったが、着ないよりはましなのかもしれなかった。わからない。心霊が覆いかぶさっているみたいに上半身が重だるい。濡れた生地が常に新鮮な冷感を供給する。今は走っているからなんとかギリギリの体温で死なずに済んでいるが、走るのをやめたらどうなってしまうのか。考えただけで、一段と深い寒気が脊髄をせり上がってきて絶望した。
自分は通常、晴れた日のレースでもゴール後は低体温に陥ってしばらく辛い思いをする。ゴールした瞬間に即、サウナに放り込まれるか地獄の釜でグツグツ煮られるかしない限り、本当に死んでしまいそうだ。ゴールにはサウナはなさそうだが地獄ならありそうだった。ゴールしたいのかしたくないのか、考えれば考えるほどわからなくなる。どこにも逃げ場がない。天国に行きたい。暖かい場所……

暖かなパライソを夢想しながら、残り7kmのエイドに達した。
青い車は見当たらなかった。
水しぶきが楽しげにまとわりつくランニングシューズのつま先を、自分はひたすら眺めて走った。
足元だけを見て、何の意思も持たず、左右の脚は下り坂の重力を使って自動運転させていた。

ゴール翌日武内さんが、「ラスト6kmのところでジョイナーさんに声かけてもらったじゃん」とレースの振り返りをしていたが、私には何のことだかわからずゾッとした。自分の残存エネルギーは、0%に近かったらしい。低電力モードに入った自分は、省エネのため、外界からのすべての受信をオフにしていたようだった。武内さんがそばにいなければ、自分はレースを続けていられただろうか。意思も思考も停止したまま、並走する武内さんの足取りが、自分をかろうじてレースにつなぎ止めていた。

残り3kmで市街地へ入った。あるはずのエイドは撤去されていた。
豪雨と強風がまた強まった。ひどい。今が最悪の天気なんじゃないか。ゴールを迎える晴れがましさは一片もなく、いつもは賑やかな沿道の声援も皆無だった。ただ自分の生存を無感動に確かめて、幻のような一歩をスパルタの町に刻み続けた。

マンホールから透明な雨水が勢いよく噴き上げている。道路には濁流が渦巻き川と化していた。ずっと隣にいたはずの武内さんがこちらを振り向いたので、我に返った。
あれ? と不思議に思って、足元を見つめた。自分の足が止まったことにもそれまで気づいていなかった。
武内さんの顔を虚ろに見上げた。武内さんは「なんなの?」と、無言の問いかけとともにこちらを見ていた。お互いもうずいぶん長いこと、一言も発していなかった。声を出しても土砂降りの騒音に消されてエネルギーが無駄になるだけだ。自分もやはり無言で「なんなんだろう」と答えた。体が前進を拒絶していた。体が、「私はこの川に浸からないといけないのですか? 嫌です。」と言って、勝手に足を止めたらしかった。とにかくもう、血が凍るほど寒かったのだ。これ以上の寒さは危険だという、体からの信号だった。
「行くぞ!」意思の力を使えば、足は簡単に動いた。川に一歩、そろりと右足を差し込んだ。全身が痺れた。その場でバラバラと瓦解してしまうほど冷たい。低電力モードに入ってからというもの意識をずっとオフにしていたため、「行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ」と常に集中して言い聞かせ続けないと、体がまた勝手な振る舞いをしそうだった。行くぞ。ゴールまで行くぞ。川は永遠ではなかった。足の甲が水から上がってきた時には安堵のあまり泣いてしまった。自分の体も、自分の心も、コントロールが効かなかった。しかしもう終わるのだ。残り1km。ここまで来たら泣いていても不自然では全然ない。「痛いよ寒いよ辛いよ~」とメソメソすすり泣くしんきくさい涙から、ゴールを迎える感動の涙へとスムーズに移行した。

しかし「感動」という言葉は便利だ。感動と銘打ってしまえばあとは何も考えなくても許される。考えるのはもう疲れた。自分の「考え」の餌食になるのはこれ以上ご免だった。思考は感動を妨げる。おつかれさまでした。大いなる感動に身をまかせたい。

最後の曲がり角を、足並み揃えて武内さんとカーブした。
のぼりくだりする直線の、細かな起伏の向こうにレオニダス像が煙って見えた。あれがゴールだ。

私のスパルタスロンは、あきちゃんだった。
あきちゃんが私のスパルタスロン、そのものだった。
笑って泣いて、必死になってここまで走った。喜怒哀楽の詰め合わせで破裂しそうな宝箱を、ガタガタ乱暴に揺らしながらそれでもこうして運んできた。
「一生懸命なくるちゃんが好きだよ!」そう言い切る武内さんの声が、ずっと自分の、支えだった。

「考え」のスイッチはオフにしたはずなのに、武内さんのやさしかった思い出が、洪水のように押し寄せていよいよ涙が止まらなかった。
膝から崩れ落ちそうなほど泣きじゃくる私の手に、武内さんの手がそっと重なった。
手をつなぐ。
怒涛の安心感に包まれる。

5度目のスパルタスロン。4度目のゴール。武内さんと並んで辿りついた、はじめてのゴール。
雨音が拍手のように鳴り響く。
かけがえのない思い出が、積み重なって今をつくった。
レオニダス像の足指が、つやつや眩しく濡れている。銅で出来た巨大な体が、雨に打たれて寒そうだ。
冷たい銅製の足の上に、つないだ手と手の微かなぬくもりを、確かに伝えた。
ふたりが流した汗と涙のささやかな青春が、スパルタの風に吹かれてひらひら舞った。