お兄さんの背中はみるみる遠ざかりました。
手を離してしまえば、人の体温でほんのりぬくもっていた右手はどんどん冷めてゆき、「腕ふりができなくて走りづらい」とか内心ちょっと不服だったのも今となっては恋しく、心は一層冷え込みました。寂しい。ひとりだ。
あーあ。
うんちしよ。
反対車線の薮に隠れて脱糞し、感傷との決別を図りました。
女の顔すんじゃねえ! うんちのくせに!
紙がないからなんとなくお茶を濁してパンツを上げます。
いい気になっちゃって、バーカ。行くよ!
火にかけたお鍋の中の煮豆の味が、冷める間に染み込むみたいに、お正月の黒豆みたいに、冷えと同時に甘くなってしまった自分のうかつな心を、わたしは持て余していました。
足指に力を込めます。
大きくふくらんだ親指の水ぶくれから、甘い煮汁を締め出したい。
破れろ。わたしのマメ。
着地のたびに感じる痛みは、自分の甘さをかき消してくれるむしろ頼もしい相棒でした。
残り、10km。
人間、カボチャ、人間、黒豆。
ラストはちゃんと自分に戻って走りたいです。
たびたび行き来する大会車の皆さんが、通り過ぎるたびに盛大な応援をくださいました。車中からエールを、エイドでは待ちかまえてハイタッチを、ハグを。
体はとてもきついです。声援に応える体力はもうゼロに等しく、手を上げるひと手間、口角を上げるひと笑顔に、ほんのわずかだけ残されていた余力がこそげとられていくようです。
大した反応もできないのに、それでもスタッフのお兄さん方は、毎度毎度、身を乗り出して、わたしを力づけてくれました。あらゆる器官が参っている今、応援の雄叫びはノイズとなって頭痛を引き起こしました。顔を歪めるしかできない、悔しい。あれだけ走り込んだのにだめだった。ちゃんと走れない。ふがいない情けない苦しい。でも。
もっとまともに走れていたら、今この瞬間はなかった。もうゴールしているであろうあの人に、わたしもなりたかった、でも、そしたら。
あの体験もこの体験も、なかったんだな。
わたしが走った。だれとも代わりたくない。もったいない消したくない。ヘボい自分が、わたしなんだ。
……負け惜しみかな。本心だといいな。
これが、自己肯定感ってやつでしょうか。
ごくごく素直に「ただの自分」を受け入れている自分に、わたしは愕然となりました。