後頭部ビジネス

若木くるみの後頭部を千円で販売する「後頭部ビジネス」。
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2016年6月21日火曜日

母とサロマ






今年に入ってマラソン大会のたびに作り始めたマンガ衣装は、台湾南横、台湾アクロス、鯖街道ときて、次のサロマで4作目になります。

今作でついに母親の死を盛り込んだことに、禁じ手を犯してしまったようなやましさがないわけではありません。
でも、感動を煽ろうとする魂胆があったわけじゃない。同情を買いたかったわけでもない。
他に書く内容をいよいよ思いつかなかった、っていうのは若干あるけど、母親死んだの、サロマの大会の日だったんです。

もう4年前ですね。

その年のサロマの2日前に体調を崩して緊急入院した母は、けれども入院直後の検査では異常なく、どこにも問題なかったそうです。本人もすぐに退院する気でいました。

サロマに出場する父の応援をしに、母も(いやいやながら)同行するのが、毎年の恒例行事でした。ほら、走っている間の荷物を預けたり車を移動させたり、サポートが一名いると何かと便利なんです。
でも、その時は出発前のタイミングで入院しちゃったから。父は単独でサロマへ発ち、しかし念のため、関西在住の姉を北海道の病院まで呼び寄せていました。姉は専業主婦でまだ子どももなかったので、比較的自由が利きました。
わたしは京都にいて、姉から「お母さん普通にしてる。なんともない」とメールをもらっていました。

サロマの日、わたしは毎時、ネットのリアルタイム速報で父の通過タイムを追っていました。携帯ちょくちょく見てたんです。
その日は夕方から夜勤があって、職場に着いたところで携帯が鳴りました。無事ゴールした旨を告げる父からのメッセージかと思ったら、着信の相手は姉でした。
「落ち着いて聞いて。」
うわずった声は震えていて、なに芝居がかってるのとか茶化す余地もなかった。
「お母さん危篤。あんたなんとかしてすぐ帰ってきな。」

ちょっと、わからないから状態が。
とにかくただごとじゃないのだけ、わかった。
だけど何しろ北海道、遠いから、まず飛行機のチケット取らなきゃいけないし、今から家帰って空港行って、ってやってたら今日中の飛行機に乗れるかどうか微妙なところで、しかも新千歳空港着いたあとも、家までの移動手段考えないといけないし。
それでそのまま、にっちもさっちもいかなくてこわい顔で仕事してたんですけど。
気を確かにしなくてはと思って何度もじゃぶじゃぶ顔を洗った、両の頬がざらついていた。ぜんぶ人ごとにしたいみたいな、手のひらの感触を覚えています。

100kmマラソンの真っ最中だった父は走っている間携帯を持たないから、連絡がつきませんでした。
ゴール目前で、「ゼッケン番号○○番、若木さん、○○番、若木さん」って大会車のスピーカーが呼びかけているのを聞いて、慌てて駆け寄り事態を知って、頭が真っ白になったそうです。
でも「もうゴールまであと2kmだし、車乗ったところでそんな変わらないからこのまま走りきっちゃえばどうですか?」ってスタッフの方に言われて、「それもそうですね」って。上の空でゴールしたそうです。
ゴール後即病院へ向かったわけですが、サロマから車で5時間。北海道広すぎ。

「母危篤」と聞いてはいましたが、もう危篤の段階で母は自力では呼吸しておらず、人工呼吸器でかたちだけ生きている状態だったと後に聞きました。
ただ今後どうするか、姉の一存では決められないから、父が到着するのをひたすら待っていたのだと。

姉から、父と合流したこと、残念だが人工呼吸器は取ろうと思うこと、くるみには死に目に会わせてやれず申し訳ないが、それでかまわないかという電話がきました。
わたしはまだ職場にいました。
母の容体もですが、生きている家族のことが心配でならなかったので、皆と連絡が繋がったことにまずは安堵しました。ひとりで何時間も臨終の母のそばにいるのはきつかったと思う。
「というわけだから、あんたは今日はもう急がなくていいから安全に家まで帰って、明日朝1番の飛行機に乗るように。」途切れ途切れに姉はそう言い残し、電話は切れました。
親類にも連絡を回したり、大変だったでしょう。憔悴した様子でした。

わたしはそれから宿直勤務を交代してもらい、茫然と帰路につきました。
家まで10㎞の通勤ラン、走りきらんかった。
ふわふわ歩いていると携帯が震えたので、見たらたまたま、体育の先生から来たなんでもないメールでした。
「先生お母さん死んじゃったよ〜!」
決壊。

翌日家族と合流するまで、皆どんな気持ちでいるのか、わたしは計りかねていました。
病院へ向かう車の中で、父が沈黙を破って「お父さんもうだめかもしれない」と涙声を絞り出した時にはびっくりした。全員びっくりしたと思う。

父母の仲は、決して良くはなかったはずでした。
ていうか、母は、わたしの知り得る限りでは、別居を目論んでいた。離婚するのかなあと思ってたけど、死ぬひと月前に京都で会ったとき母は、「離婚はめんどくさいから別居にする」と照れ臭そうに話していました。「お父さんがサロマ走ったあとの北見のホテルで、別居のこと切り出す」と、母は確かにそう言っていたのでした。わたしは、何もマラソン後の疲労体に駄目押しするようなタイミングで言わなくても、と内心思っていた。
だから、母の死去を知った時、まず、「そうか北見での話し合いは回避されたんだな」と、「めんどくさいあれこれから見事に母はすり抜けたんだな」と、なんていうか、「勝ったんだな」っていうか。死の鮮やかさに思わず感服したのでした。

離婚でも別居でも、好きにすればいいと思ってはいましたが、子どもとしてはやっぱりいざこざを心からは楽しめないというのが本音でした。
思春期、わたしは激烈な反抗期で、両親とも姉とも思いっきり険悪だったため、家族の不仲の根源は自分に由来するという自責の念もありました。

だから父の気持ちがどんなふうか全然予想がつかなかった。平然としているかなあと思いきや、父は意外にもちゃんとダメージを受けていて、ニュース番組でちょっと恵まれない子が映っただけですぐポロポロ泣いちゃうし、「もう仕事もやめる、続ける自信ない」などと言い出し、生活の気力を失くしていました。
わたしはしばらくの間、北海道で父とともに暮らすことになりました。

葬儀では母の妹のゆり叔母ちゃんがゴウゴウ泣きながら、「こんなん言ったらあかんけど正直親が死ぬよりよっぽどつらいわ」と吐露して、親であるおばあちゃんが気分を害していた。

わたしは母の戒名を決める際、お坊さんから、「故人をイメージする漢字を4つ決めるように」と言われ、皆が「恵子の恵」「知性の知」などと言う中、迷わず「いかり。怒。」と言ってしっかり笑いを取った。だって母と言えばまずは怒ってる姿だもん。

皆、死によって感情のフタがひらいちゃってるから、涙が出るのといっしょに笑いの沸点もすごく下がっていて、わたしの不謹慎発言はどっかんどっかん、当たりまくっていました。
そのためわたしは母の死に関して、自分が冴えていたという超気持ちいい記憶しかない。

何年も前にお嫁に行っていた姉と、単身赴任の多かった父と、久しぶりのメンバーで過ごせたのもたのしい思い出です。
昔の家族アルバムを見返しながら母について語らいました。
若かりし頃の細眉の母のケバい化粧に驚愕したわたしが、「うわあ!?  なにこの安室奈美恵の出来損ないみたいな!」と言えば、姉がすかさず「あんた!  今すぐ安室奈美恵に謝りな!」とかぶせ、それを少し離れたところで弱々しく微笑みながら見守る父、っていう。

オリジナリティ至上主義者だった母の奇抜なファッションセンスをわたしも姉も生前から影で嘲っていたのですが、姉は幼少期より絶えず「あんたはセンスがない」と母に言い含められたせいで、未だにファッションに全く自信が持てないそうでした。でもおねえちゃん実際、薄黄色のハイソックスとか履いてたじゃん……。「わたしも中高の時、おねえちゃん見るたびに『あんなダサいかっこするぐらいなら一生頭悪くていい』って思ってたよ。」今考えると、その考え方自体がもうバッチリ頭悪いんですけど。

話は戻って、母の戒名は「智光仁恵信女」になりました。
「信女」って1番安い名前なんです。知ってました?  戒名ってランク付けされていて、種類によって値段違うんですよ。「信女」より「大姉」のほうが高いの。あとそれよりもっと高いのもあってね、お坊さんは一生懸命、せめて「大姉」にとおっしゃっていたけど、みんなしてうつむいて、でもわずかなせせら笑いでもって、「結構です、信女でじゅうぶんです」って。
「そんなの関係ねえ」と言わんばかりの、血族一同に通底するひねくれた信念をびんびん感じました。

家に帰ると、わたしと姉とは競うように母から受けたトラウマの数々を暴露し合いました。
姉は、「高校の頃さあ、テストが終わったらヨーカドーのお花屋さんに行って、お母さんにあげるお花選ぶのがささやかな気分転換だったんだけどさあ、母、『お母さんはこの花嫌いや』っつってさあ〜!  ほんとに憎たらしいよ!」そう憤るのですが、わたしには意味がわからなかった。「え、どういうこと?  テスト勉強終わって、お花買いに行くの?  しかもお母さんにあげる??  ゲーセン行かないで?  花??  ……おねえちゃん。戒名『大姉』って付けてもらいなよ。」「なんでわたしだけ!  やめてよ。」

姉すごい。母親に感謝するとか、わたしは当時、チラっとも考えつかなかったですね!
人としての出来の違いが骨身にこたえました。

母が死んだせいでお供養の桃とかメロンとか、普段食べられない高価な果物をいっぱいもらえるのがわたしはうれしくて、「お母さん毎年死ねばいいのに〜!」って叫んだら、「あんた今日中に地獄に堕ちるよ。」って、姉が心の底から愉快そうに笑った。わたしはこれから、姉を笑わせるために生きていこうと思いました。笑いのためなら死者をどれだけ貶めてもかまわないと思いました。

それから残された家族3人で、それぞれが死んだ時のための戒名を考えました。
ルールは漢字4文字です。
母の場合、名前の恵子から1文字「恵」を取ることができたけど、姉「まりも」、わたし「くるみ」、ふたりともひらがなだからその手は使えません。
しかも「まりも」って早く言えば「藻」ですからね。わたしは「実」。藻に比べたら全然マシです。戒名に「藻」、地味な上にじめじめしていて、ちょっとどうなんでしょう。他にも、「喪」とか「漏」とか、「も」の漢字ってなんかイメージ悪いので、姉はまりもの「ま」を取って「真」を当てることにしていました。プライド高あ〜。でも基本的に姉妹の主従関係は絶対であり、実際わたしは姉を敬う気持ちしか持っていないので口出しできませんでした。
その点わたしの4文字はすぐに決まって、「暴食爆発」です。
父の戒名は、名前の嘉浩から「嘉」を取り「真面目」と組み合わせて一気に完成。「真面目嘉」。「まじめか」。そういえばタカトシも北海道出身だったっけ。

母の死因は、精密解剖の結果を1年待っても、ついに判明しませんでした。
急速に進む血液の病気だろうという、お医者さまのお話でした。

母の最期の言葉は、「苦しい、苦しい」だったんだって。
姉が目を潤ませながら言っていた。
カーテンを片付けるようにとか、冷蔵庫の左端に入っているあのタッパーから食べるようにとか、そういう他愛もない話を元気にして、お手洗いに行こうとベッドから身を起こした次の瞬間、母は急に悶えて、「苦しい、苦しい」って言ったって。
すぐに看護婦さんやお医者さんが来て騒然となって、姉は病室から追い出され、そしてそのまま、お別れだったって。

なんでも早くから準備をして、理想の自己表現に余念のない母だったから、死ぬってわかっていたらものすごい長大な遺書とか、絶対何か残していたと思う。
最期の言葉も、練りに練ったセリフで決めたかったんじゃないだろうか。

思い残すこといっぱいあるだろうなあと思うとかわいそうだけど、「ありがとう」とか「達者で」とか、わたしたちに向けた言葉じゃなく、「苦しい苦しい」で終わったことが、わたしにはよろこばしいことのように思えました。
生の真っ只中にいた、母自身のリアリティを感じられるからかな。
わたしは長年、「母」という強大な存在とどう向き合えば良いのかわからず苦しかったけど、ああ、母も苦しんでいたのだと、死んでからやっとちゃんと、その苦しみを悼むことができました。
母が、母でも妻でもなく、最期はただ生き物として発した「苦しい」のその一言に、わたしは自由を感じるのです。自分もまた、母から解き放たれて自由になれた気がした。
……ほら最期の言葉が感動狙いのいわゆるいい言葉だったりすると、さすがに悪態つきづらいから。
その点すごくやりやすいです。

死後も、母が定期購入していたサプリやら化粧品やらが届いた。そのたびに、ああ母はまだまだ生きる気満々だったんだなあと思って、どうも御愁傷さまで〜す。


お母さん、現世は楽しいです。

母のことは、もうサロマの時期ぐらいにしか思い出しません。
命日も毎年忘れちゃう。そもそも覚える気がない。
だいたい、母が死んですぐの時だって、よし作品のネタにできるぞって、なんならラッキーな拾い物ぐらいに思っていました。
なのに今まで、「あの話ブログに書きたいけど、そしたら母の死についても触れなきゃいけないからや〜めよ」と思って断念したりとか、意外と奥ゆかしいとこありますね。

ただ、冒頭で、母の死を素材にすることへの逡巡を見せたのも、それもこれも、すべては計算、打算です。
寝かせたぶんだけ話に重みが出るかなと思って、今までためてたんですよ〜。
やっぱり、「この子(31)、母の死を乗り越えてきたんだな」と思うと、なんか深みが出るでしょ? 出ませんか? 出してね!
ただのファザコンじゃないかもよ! 感動してもいいよ!!

わたしは、父によろこんでほしい。
母のこといくら考えても何も返ってこないから。
どうせなら生きてる人が生きてるうちに愛情を注ぎたいです。

ただ、母親無関係に本当にもともとただのファザコンっていう可能性も全然あるので、読者の皆様は騙されないでください。
「親バカ」はよく聞くけど、「子バカ」ってあんまり聞かないですよね。
たとえばもし「子バカ」が世間で流行っていたら、わたしは今こんなに堂々とファザコンを名乗っていないかもしれません。でも幸いなことに、親ブームまだ来てないみたいだから。自分の個性として、「子バカ」を際立たせていきたいんです。戦略的に。

お父さん大好きだよ!!
父には今年もそろそろランニングシューズ買ってもらわないとなあって思ってます。